第9部 技能者養成所(6)

2008年02月20日 12:56

 機関車の仕上工に配属さる

 3カ月の試用期間中に、職場と職種を決めるためのさまざま適性検査が行われた。
簡単な一ケタの足し算を左端から繰り返す「内田クレペリン検査」。
 1?ほどの細長い鉄板の真ん中に、目測で針を合わすテストなど。針は小さなハンドルを回して動かすようになっていた。
 さらに肺活量や握力、背筋力などの測定などなどである。
 配属は、その結果で決まるのだが、一応、生徒にも各自の志望を提出させられた。
 職場の選択といっても、通りいっぺんの工場見学では、決めてとなる判断材料はないに等しい。
 機関車、ブレーキ、製缶、鋳造、鍛造など各工場内を見て回ったものの、どの職場も今風に言うと3K(危険、汚い、きつい)である。
  職種は機械工、仕上工、溶接工、木型工など職名を挙げられてもピンとこないし、自分がどの職種に適性があるのか、かいもく見当もつかない。
 アドバイスしてくれる相手を、探しようもない。
 われわれにとって、これは難問で苦渋の選択であった。
 思い悩んだ末、わたしは機関車工場の仕上工を第1志望、機械工を第2志望とした。
根拠は、機関車の仕上げは最終の組立作業に携わるのだろうと勝手に想像し、それなら少しは面白かろうとういう程度のことだ。
 機械工の希望者は多いだろうと予想し、第2に避けた。
 発表の結果、機関車工場では機械工が4人、仕上工も同じく4人が配属された。
 わたしは第1志望どおりになった。
 同じ仕上工に決まったKは、第1志望は機械工だったと言うから、わたしの予想は当たっていたようだ。
 全員の配属先の発表を終えたあと、担任の教師が言うには
 「この中に、どこにも配属するところがなく、困ったのが1人いた」
 わたしは肺活量と握力が弱く、やり直しをさせられた。
 肋膜炎の後遺症と、開墾地のクワ振りで手首を痛めていたせいで、2回目の測定値も同じだった。
  困った1人とは、わたしのことかと思ったが、担任の口ぶりから察すると、どうもそうではないようだった。
 憧れるような職場は皆無とだったが、誰もが敬遠したがる工場だけはハッキリ分かっていた。
 皆が嫌がっている工場に配属された連中の心中は察するにあまりあるが、その中の1人は、たちまち不満をぶちまけて、あっさり養成所を去っていった。
 それから4年後。
 Kが、名古屋製作所で航空機事業(米極東空軍機のオーバーホール)が再開され、組合で希望者を募っているという情報を持ってきた。
 元軍国少年のわたしだ、航空機と聞けば大いに心が動く。
 もう1人のSも乗ってきたので、仕上工3人連れ立って名古屋製作所への転勤を願い許可された。
 仕上工で1人残ったYも、その後、神戸造船所へ転勤している。
 機関車の機械工では、その前に2人が会社を辞めていた。
 後に弁護士になった垣内と、文学少年の菊地である。
 菊地は養成所を卒業すると同時だが、辞めることを事前に知っていたのは垣内だけのようだった。
 身長が同じく小さいこともあってか、彼とは気が合い、海水浴に誘われたこともある。
 その時、わたしの中学校の校長が、生徒に三国志を読むことをすすめた、と話すと一笑された。
 彼の学校の先生に言わせれば、そんなものは文学ではないと言う。
 芥川だとか漱石だとか川端など日本人のほか、外国のトルストイやモーパッサンなどを挙げ、岩波文庫を読むよう、わたしを啓蒙した。
 三原市の中学校出身と、片田舎の中学出身とでは文学に関する知識に格段の差があった。
 菊地は以前から、給仕でもいいから新聞社か出版社で働きたい、という強い願望を持っていることは知っていた。
 数学に弱い彼が、養成工3年の中間試験のときだったか、白紙の答案を出していた。
 すでに会社を辞める決意をしていたのだろう。
 それから十数年後、たまたま彼の消息を知り、神戸で一緒に飲んだことがある。
 神戸の鉄工会社で、営業マンになっていた。
 誘われたのは、彼が気安い取引先の接待につかうような気軽な飲み屋だった。
 あれほど熱っぽく語っていた文学の話は、最後に別れるまで、彼の口からこぼれ落ちることはなかった。
(上の写真3枚は『日本の鉄道史セミナー』グランプリ出版)




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