第9部 技能者養成所(1)

2008年01月18日 17:32

 鶏との奇縁、受験日の朝、雌鳥が初めて卵を産む

 例年50人だった養成工の募集人員が、1次試験の直前になって30人に減らされた。
 この年(昭和24年)の2月、米国のドッジ公使が来日し、日本が直面しているインフレを徹底的に抑制するため「ドッジ・ライン」というデフレ政策を強行。これが日本の各企業に一層の緊縮を強いることになる。
 そのシワ寄せが養成工の採用減という末端の事象にまで波及したようだ。
 1次、2次とも試験科目は数学、理科、国語、英語、社会の5教科。
 先生たちは養成所の過去問に関する情報がつかめないから、受験の対策の立てようがない。
 試験の前日は風邪など引かないよう早く床につくようにと、アドバイスするのがせいぜいのようだった。
 試験当日の朝、わが家で不可思議な現象が起きた。
 イタチの被害にあわず、1羽だけ残っていた雌鶏が突然、卵を産んだ。
 これまで一度も卵を産んだこともない、貧弱な体の雌鳥がである。
 母がなにげなく鶏小屋をのぞいたら、小ぶりの白い卵が転がっていたそうだ。
 わたしの干支は酉、奇縁だ。
 “吉兆”だと誰しも思いたくなる。
 母は興奮した声で、「こりゃ縁起がいい。入社試験は絶対に受かるで!」
 わたしは、母が殻に穴をあけた卵の中身をすすり、ワラぞうり姿で家を出た。
 受験場は三原市内にある養成所の校舎だった。
 大田とわたし、それに前年卒業していた垣内の3人は、試験が終わると一緒に帰路に着いた。 
 本郷駅で下車すると、神戸商船大学出の英語の先生が、駅頭で自転車を横に待ち受けていた。
 帰りの道々、先生は自転車を引きながら、回りのわたしたちに試験の内容と解答を熱心に尋ねた。
 わたしは、理科で出題された地球と月の関係を、引力と遠心力を使って説明したと話すと、「それでいい」と、うなずかれた。
 以前、少年向けの科学雑誌で読んでいたのがヒントだった。
 数学では、図形の面積の計算だったと思う。垣内とわたしでとでは、問題の解き方は違っていたが答えは合っていた。
 ただ、彼の着眼や手法がわたしより優れていた。
 2次試験の時は彼の解き方がヒントに使え、ありがたかった。
 英訳は分からない単語が数カ所あったが、前後の文脈から想像を巡らし、適当にやっつけた。
 こうした勘働きはよい方だから、案外、的を射た訳になっていたかもしれない。
 1次試験は3人とも合格した。
 2次試験の時も、英語の先生は小さな雪がちらつく中、本郷駅で待っていてくれた。
 帰りの道々、わたしたちに尋ねることは前回と同じ。
 自転車で来ていた垣内は、先生と並んで歩きながら、わたしに「養成工に受かったら、両親に自転車を買(こ)うてもろうて、用倉から通勤するがいいわ」
 大人びた彼は、すでに合格したかのような口ぶりだった。
 家の近くの池までたどり着くと、父が待ちかねたように立っていた。
 結果を聞かれ、自信たっぷりに「絶対受かる」
 「そうか」父の顔がほころんだ。
 わたしの頭の中には、試験を受ける前から「不合格」の文字はなかった。
 その根拠はと言われると、実にたわいないことだった。
(蒸気機関車C62、D51『日本の蒸気機関車』ネコ・パブリッシング)


 おみくじの不思議な効力

 牡丹江で4年生の時だった。満州で唯一の滝がある鏡泊湖へ日帰りで遠足に行ったことがある。
 その時、どこかの土産物屋で、おもちゃのおみくじを買った。
 開いて見ると、「上級の学校の受験はすべて受かる」と書かれていた。
 以来、わたしは、なんの疑いもなく素直に、おみくじのご託宣を信じてきた。
 旧制中学の受験で、それが実証されたから、神がかり的にさえなっていた。
 賢い子どもは、何事にも「どうして?」、「なぜ?」と疑問を抱くというが、父や兄に「いつもボケーとしている」と言われているアホな子どもにも、それなりの利点はあるようだ。
 火事場の馬鹿力に似て、思いもかけないところで力を発揮するから侮れない。
 2次試験の合格発表は、卒業式の日と重なっていた。
 校庭の隅で数人の同級生と話をしているところへ、大田がやってきた。
 ご苦労なことに、彼は卒業式の始まる前に三原まで発表を見に行ってきたという。
 そうして、わたしに合格を報せてくれ、自分は不合格だったと告げた。
 「あんたは受かったんじゃけ、もっと嬉しい顔せんかい」
 せっかく見に行った当人が不合格なのだ。嬉しい顔などできるわけがない。
 不遜(ふそん)ながら「合格」を信じていたわたしである。
 彼から聞いても新たな感動など沸くこともない。
 内心では、彼の余計な言動が迷惑にさえ思えた。
 卒業式が終わり、職員室へ挨拶に行くと、先生たちの空気が沸き立っていた。
 近隣の中学校は全滅、養成工に1人も受かっていなかったという。
 ライバルの近隣6カ村の中学校に、電話をかけまくったようだ。
 わが校は、垣内とわたしの2人も受かったのだから、先生たちの意気があがるのも無理はない。
 6カ村対抗の野球や駅伝で芳しい成績を上げていなかったから、大いに溜飲を下げているようだった。
  ところで、入社して分かったことだが、6カ村の中でも沼田西中学校から養成工に1人受かっていた。
 彼は3年後、養成工をトップで卒業している。
 さらに付け加えると、入社試験の上位は旧制中学校からの受験者が占めていたようだ。
 広島の逓信講習所の受験日は、卒業式の翌日だった。
 大田は首尾よく合格したと聞いている。
 因縁話めくが、鶏と卵の件だが、2次試験が済むと不思議なことに、次の日からパタリと産むのをやめた。
 こんな話には、多分、マユにツバをつける人が多いだろうけれど。
(学制変遷のメモ『復刻版 昭和大雑誌 戦後編』流通出版)




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