第8部 開墾と山の暮らし(8)

2007年12月21日 16:26

 食糧難時代の農村の秋祭り風景

 
 河戸(こうど)の家には、たびたび出かけていたが、印象に残っているのは昭和22年と23年の秋祭りである。
 お祭の行事にはさほど興味を示さなかったが、なにしろ食い物にありつける魅力が絶大だった。
 貧しい農家のご馳走だからたいした料理ではないが、慢性的にすきっ腹を抱えている身には無常の喜びであった。
 庭には柿とイチジクの実が熟していた。
 縁側には、ふかしたさつま芋が竹で編んだざるに盛られていた。
食い意地のはったわたしのことだ、普段なら手が出るところだが、祭りの日は食指が伸びなかった。
 
 三枝叔母たちが作っている押し寿司や、自家製の豆腐、豆餅などに思いは飛んでいた。
 豆腐は、石臼で大豆をひき、豆乳をニガリで固めて作る。
 (石臼は『<グラフィック・レポート>日本人のふるさと』岩波書店)
 大豆の臼引きは、わたしにもできるので、手が少し不自由な大叔母を手伝った。
 このころの農家では、押し寿司や餅などはともかく、豆腐もお祭りとか盆正月など日常とちがった晴の日の特別な食べ物であった。
 
 寡黙で感情を表に出さない大叔父の末次さんは、お神楽が唯一の楽しみのようだった。
 そのころの末次さんは、まだ60歳に届いていないはずだが、かなりの年寄りに見えた。
 ロー・ティーンの目だから、そう見えたのかも知れない。
が、今では医学の進歩や生活環境の向上などで平均寿命が延びたこともあって、万人が「昔の人は“ふけて見えた”」と認めている。
 
 堺屋太一さんの著書『世界を創った男 チンギス・ハン』では、16世紀後半の日本人の年齢観について
 「当時の年齢(数え年)を1.2倍して3を足したぐらいが、今日の私たちが持つ年齢観にふさわしいのでは…」
「例えば、織田信長は49歳で死去した。これを1.2倍して3を足すと62歳。豊臣秀吉の没年は63歳、先の換算では79歳。75歳まで生きた徳川家康は今の93歳になる」と。
 
 わたしが、お祭りで興をそそられたのは、お宮さんの近くの広場で開かれる草競馬だった。
 その日は、早朝から馬の蹄(ひずめ)の音が家の中まで響いてきた。競馬で勝利するよう馬主が調教していたのだろう。
競走馬の持ち主に知り合いはいないが、狭い馬場を疾走している馬を見ているだけで楽しかった。田舎の草競馬とはいえ、競馬を見るのは、はじめてだった。
 夜には、青年団の手による芝居が、小学校のにわか舞台で演じられた。
 校庭の観客席は、村人たちがそれぞれ持参したムシロで埋まった。
 演目はいずこの村も同じらしく、“柿木のぼる”と“栗木おちる”を名乗る2人の若い男が争う寸劇とか、自分のハンカチを落として、「もしもこのハンカチは…」と通りすがりの若い女性に近づこうとたくらむ青年といった筋書きの喜劇など。最後は菊池寛原作の「父帰る」で締めくくられた。
 三枝叔母は、「父帰る」に女学生のころの思いが浮かぶのか、見ていると少し興奮した面持ちになっていた。
 また、大広間のある家では旅役者を招き、近隣の人たちが観劇に集った。
座敷の観客の中から、役者に向けておひねりが飛んだりした。
 私見だが、わが国の農村が若さと活気に溢れ、はなやかだった時代は、昭和20年代の米不足のころと合致しているように思うがどうだろう。
 夜、底板を踏み下ろして五右衛門風呂につかり、窓から稲が刈り取られたばかりの田んぼと、その向こうに見える農家の灯かりを眺めていると、わけもなく深い郷愁に襲われた。
 満州では無縁だった田園風景だが、日本の農家の血が体内によみがえるのだろうか。
 話は飛ぶが、昭和23年11月12日に東条英機ら7名の戦犯に絞首刑の最終判決が下ったことは新聞で知った。
 学校の帰りに、用倉山のふもとの山下さんというお宅で、時々新聞を読ませてもらっていた。
 なにかと親切にしてくれる、その家のおじいさんが縁側に紙面を広げ、教えてくれたのだった。
 だが、わたしには、東条絞首刑の大きな見出しも、遠い昔の人物のようにかすんで見え、何の感慨も湧かなかった。



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