第8部 開墾と山の暮らし(7)

2007年12月13日 14:09

 音痴の悲哀、小学校は苦難のスタート

 「70余年間、私は人前で歌ったことがない」
 つい最近、植物生態学者の宮脇昭氏が、日本経済新聞のコラム『こころの玉手箱』(日経・夕刊07.10.24)で、告白されていた言葉である。
 世の中には、わたしと同じ思いをしている人がいることを、このコラムで知り、少しばかり救われる思いがした。
 告白者が植物生態学の泰斗(たいと)であるから、わたしの安堵(あんど)感はひとしおである。
 前述のコラムから、もう少し要約、引用させてもらう。
 「学芸会の前日、1年生の担任の若い女の先生に、『昭ちゃんはお歌がお上手です。ですから明日は大きなお口を開けて声を出さずに歌ってください』と言われた。
 褒められたと、私は思った。家に帰って母親に話すと、
 『やっぱりおまえの歌はもげちょる(音程がはずれている)』(宮脇氏の故郷は岡山県)
 私は(その時の)母の悲しそうな顔が忘れられない。それ以来、人前で歌うのをかたくなに拒んできた」
 ただ、人前で歌わなくなったなりゆきが、わたしと決定的に違うのは、昭ちゃんの場合、思いやりのある若い女の先生が担任だったことだ。
 昭和14年4月に朝鮮の群山小学校に入学したわたしは、わずか1カ月で父の赴任先である満州・牡丹江の小学校に転校した。
 1年生の担任は、男の音楽の先生だった。
 わたしの小学校生活のつまずきは、ここから始まった。
 音楽の時間には時々、1人ずつ教壇で先生のオルガンに合わせ唱歌を歌わされた。
 音痴のわたしは、それがたまらなく嫌で、まともに歌おうとはしなかった。
 まだ、ほやほやの1年生のわたしが、先生に反抗する気などあろうはずもないし、音楽の授業にふまじめであったわけでもない。
 理由は、みんなの前で歌うのが、ただ恥ずかしいかったからである。
 その原因は、こうである。
 ある日、家で何気なしに歌っていると、父に「お前のその変な声は、なんだ…」とやられた。
 音程がはずれていることは、自分でもうすうす感じていた。
 だが、父のこの言葉は強烈に胸に突き刺さった。
 担任にしてみれば、転校してきたばかりの1年生が、と腹立たしかったに違いない。
 先生に疎まれるようになったのは当然の成り行きだが、昼の弁当を忘れたくらいで、いきなりビンタを張られた時はびっくりした。
 ところが、歌がうまくてNHKに出たことのある男の子には、猫なで声で接していたから、えこひいきの激しい先生だとつくづく思った。
 必然、この先生がいやでたまらなくなった。
 嫌いな習字の時間に、わざと習字道具を忘れ、家まで取りに帰されると、途中、道草しながら授業の終わったころを見計らって教室に戻ったこともある。
 授業中は先生の話など上の空。教科書のイラストを赤青の色鉛筆で塗りつぶしたり、窓の外を、なんとなくぼんやり眺めたりしていることが多かった。
 「お前は授業中ボヤっとしていて、先生の話もろくろく聞かずにいるのだろう」
 わたしの教科書を開いて、放った父の言は図星だった。
 そんな風だから、通信簿を貰って帰る日に、父が出張かなにかで家にいないとホッとしたものである。
 兄の通信簿と比較されるのも、気の滅入る要因の一つであった。
 それでも学校だけは休んだことがない。学校へ行けば級友たちと遊べるという単純な動機からで、授業時間を除けば学校生活は充分楽しいものだった。
 授業中の上の空は、5年生の2学期の途中まで続いた。
 それが、父の転勤で満ソ国境の辺ぴな学校に転校して一変した。
 歩兵部隊から派遣されていた三浦先生と、めぐり合えたことが大きかった。
 長崎師範出身の教師で、それまでチンプンカンプンだった分数の計算も、この先生に教わると、すらすらできるようになった。
 小学校1年のときには、最低の点を付けられたことのある絵も、三浦先生の指導で描くと、父兄会で来た人たちに、「この絵の中の戦車は、本当に動いているように見える」と褒められた。
 おかげで、わたしのボンクラ頭も少しは改善され、凝り固まっていたコンプレックスも薄れていったように思う。
 残念なことに、恩師である三浦兵長は、昭和19年末、フィリッピンに向かう輸送船が撃沈され、海の藻屑と化してしまわれた。
(朝鮮の地図と写真は別冊1億人の昭和史『日本植民地[1]朝鮮』毎日新聞社)




コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://saro109.jp/tb.php/125-1a1dea8f
    この記事へのトラックバック


    最新記事