第8部 開墾と山の暮らし(5)

2007年11月28日 16:05

 嬉しい雨の日曜日

 日曜日が雨になると嬉しかった。
 雨が降れば開墾の手伝いから開放され、盆正月と同じように大っぴらに遊べるからだ。
 親たちは炭俵を編んだり、縄をなったり、わらぞうりを作ったり、ノコギリの目立てや開墾用具の手入れなど、家内での作業に余念がなかったが、子どもたちにまでは強要しなかった。
 わたしには唐臼(からうす)を踏む役目があったが、これも臼の中に入れてつく玄米がなければお役ごめんである。(唐臼は米の精白や餅つきなどに使う)
このような雨の日曜日は、わたしの家の裏側あたりの山手に入植している川上兄弟が、申し合わせたように破れた番傘を差して、わたしと兄を誘いに来た。
母の実家の瓦屋を手伝いにいっていた兄は、この年の夏ごろ用倉に戻ってきていた。
わが家の近くに、誰が何の目的で作ったのかしらないが、見張り小屋のような粗雑な建物があり、そこがわたしたち4人の遊び場になった。
遊びは主にトランプ・ゲームで、ババ抜きや七並べ、神経衰弱、ダウトなど、部屋の中で雨漏りを避けながら、夢中でゲームに興じていた。
ムシロで囲われた小屋の外は、人が誰ひとり通るわけでもなく、大声ではしゃいでも気兼ねするものはいないから、のびのびと遊べた。
腹時計で昼食時になると、いったん家に帰るが、小屋に戻ってくると、寸暇を惜しんでゲームの再開である。
夕暮れに差し掛かり、トランプの文字が読みづらくなると、やむなくゲームをやめ、お互い遊びの余韻を引きずりながら家路に向かうのであった。

父と口論して兄が家出

兄が家を飛び出し、ゆくえ不明になったことがある。
原因は父との口論からのようだった。
多分、将来への展望がない開拓生活に家族を巻き込んだ父に反発したのではないかと思う。
家出をして2、3日たっても兄は家に戻ってこなかった。
さすがの父も不安になったらしく、本家の河戸に行ったかもしれないと、片道14?の道のりを歩いて尋ねにいったが、そこにもいなかった。
河戸以外に行くあてはないはずだからと、父は家の裏手の山中を探し歩いた。
すると、山の岩の上に横たわり、全身を蚊に刺され、絶食で衰弱しきった兄が見つかったという。
父は兄を抱きかかえながら家に入ってきた。
その後で、兄のことを「我慢強い奴だ」と褒めたたえた。
ほんの少し前までは、動揺で顔色を失っていたのだが、いい気なものだ。
3歳ごろまで、キク婆さんに躾(しつ)けられた兄は、確かに辛抱強い性格だった。
小さいころでも、正座をしろと言いつけられれば、1時間でも平気でいた。
母から羊かんを1本ずつ与えられると、兄はそれを何等分かに分け1日の分量を決めて食べていくが、わたしは食べたいだけ食べておしまい。
後で兄の分をねだるから当然嫌がる。それを母が目にすると、「分けてやりなさい!」。
キク婆さんと母は、どちらも勝気で気性が強いから折り合いが悪く、キク婆さんは次男の清叔父の家で暮らすようになっていた。
わたしの躾けは、母に代わっていたらしいが、子どもに甘かった。
母は何をやるのも手早いが、がさつ。キク婆さんは几帳面で、机の上に置いた本やノートが、机のたて横の線と平行になっていなければ気分が悪いという性質だ。
食事作法にもうるさく、箸の先は3分(約1?)以上汚してはいけないとか、味噌汁を飲むときは最初から具を食べてはいけない、といった風だった。
そんなキク婆さんに一度だけ絶賛されたことがある。
 M重工の養成工2年の時、蓄膿症の手術をうけたが、付き添いに来たのがキク婆さん。
 病院の夕食は早いし食欲はない。その日のおかずは大嫌いな煮魚だった。
 満州にいたころ、中学校時代の寮の弁当のおかずは毎日、冷凍物の魚とヒジキの煮たものだった。いまと違って冷凍の魚は臭みが強くて不味い。
 その後遺症で、病院の食事で出された煮魚を、いやいや箸をつけていた。
 食事を終えると、キク婆さんは皿に残された魚の形を見て、誇らしげな顔になった。
 膳を下げて帰ってくると、「あんたの魚の食べ方は、ほれぼれするような食べ方だった。炊事場の人たちの目に付くように、お膳をこれみよがしに置いてきた」と。
 祖母の思わくどおり、炊事場のみなさんが感じてくれたかどうか。当の本人には、どこがどう作法にかなっていたのか、今もって分からない。



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