第8部 開墾と山の暮らし(4)

2007年11月21日 17:24

 印象に残る住銀石段の「死の人影」

 広島駅に降り立った山の子ども4人の出で立ちはというと、わらぞうりに半ズボン、その下からのぞくスネは、本郷駅まで田舎道を歩いた土ぼこりで白く化粧されていた。
 ひと筋かふた筋の汗がスネの表面を流れ伝って、その部分だけ地肌が露出していた。
 手には、それぞれ風呂敷に包んだ1重の重箱を、後生大事に提げていた。昼の弁当がその中に入っている。
 駅頭に立つと目の前に市電の停留所があり、その向こうに闇市のような間口が広く、中が暗いバラックが建っていた。
 闇市のような雰囲気のバラックは、あとからできあがった、わたしの幻想かもしれないが、市電は原爆投下から2カ月ほど後に走りはじめている。
 『爆心地ヒロシマに入る―カメラマンは何を見たか―』(林重男著、岩波ジュニア新書)の著者によると、
 1945年(昭和20年)10月1日、(中略)1台の市電が、広島県産業奨励館(原爆ドーム)をバックにして、(中略)運転手1人がたった1人の乗客を乗せています(右の写真)。(中略)広島電鉄の記録によると、(中略)ちょうどこの日からようやく山口町と己斐(こい)のあいだにふたたび市電が走り始めたのです。
 山からやってきたお上りさん4人は、チェコ人の設計になる産業奨励館跡(原爆ドームという呼称はもっと後からだと思う)、爆心地に近い住友銀行広島支店の石段の「死の人影」などを見て回った。(左下の地図は前同『爆心地ヒロシマ…』より)
 「死の人影」は、原爆による瞬間的な高熱で石の表面が白く変化したが、人のいる部分が熱線を遮って黒く残ったのだ、と聞いていた。
 わたしは、玄関の石段に座っていた人物が、国民服に戦闘帽をかぶり、ズックのカバンを肩にかけ、ロダンの「考える人」のような格好でいたのではないかと連想した。
 さらに、そのひとは被爆の瞬間どんなことを考えていたのだろうかなど、思いをめぐらしてみた。
 原爆ドームよりも、こちらの方が印象深く残っているのは、そうした人間のさまざまな思いを想起させるからかもしれない。 
 原爆ドームは、崩れたコンクリートの外壁と鉄骨の残骸のみで、想像力の乏しいわたしには、そこから被爆した人たちの惨状を想像するのは難しかった。
 風呂敷包みの1重の重箱には母が知恵をしぼり、材料を工面して作ってくれたおはぎや、かしわ餅が詰まっていた。
 おはぎといっても、サツマイモのアンでくるんだ代用品、かしわ餅のもちは粉末の米を練って作り、中のアンはえんどう豆をサッカリンで甘味をつけていた。
 4人とも似たりよったりの中身だが、お互い交換し合って食べた。
 材料はみな同じなのだろうが、それぞれの家庭で微妙に味が違うから不思議だ。

 国家にも「弱り目にたたり目」のことわざが存在するのか

 前述の『爆心地ヒロシマに入る』を引用すると、
 1945年(昭和20年)9月27日、午後2時30分の汽車で東京を発った日本学術研究会議原子爆弾災害調査団の一行は(中略)、一夜明けた翌日の午前、尾道に着いたが、9月17日、九州枕崎に上陸した台風は広島を直撃し、東海道線(山陽本線)を寸断していたため、ここから先は海路、広島に向かう。夜8時出港、翌29日朝、広島の宇品港に着いた。
 敗戦直後、本家の河内の田んぼに大きな石が押し流されてきて、これを取り除くのに苦労したと父に聞いていたが、これも枕崎台風で川が氾濫したせいだったらしい。
 また、昭和22年に入ってからも、河内駅から東の花園地区に向けての道路が決壊したままで、山陽本線の線路上を歩いていたが、これも枕崎台風による洪水の影響であった。
 敗戦、わずか1カ月後に大型台風に襲われ、国土が大きな被害をこうむっている。
 国家にも「弱り目に祟(たた)り目」、「泣き面に蜂」という、ことわざが当てはまるのだろうか。 
 もう一度、『爆心地ヒロシマに入る』を引用させてもらう。
「75年間は植物の生育不能」というおそろしい言葉は、現地に来てみると、実情とはちがっている(中略)、被爆後わずか2カ月を経過した爆心地あたりにいろいろな植物が育っている(中略)。やはり、放射線による障害なのでしょう、(中略)被爆後生え育った潅木(かんぼく)、雑草の、(中略)ほとんどの葉に斑(ふ)入りが見られました。まるで脱色剤で部分的に葉緑素をとりさった感じでしたたしか宿舎に帰ってから、「どうも東京で予想していた放射能より少ない」という言葉をチラッと耳にしました。(中略)アメリカの演習で被爆したという想定の原子力空母が、(中略)海水で放射能を洗い流している写真を見たとき、放射能は水で洗い流せるのだと思いました。すると、枕崎台風と10月の広島の放射能の少なさとの因果関係が存在するかもしれない、このことがいまだに解けない謎なのです。
(上の地図2枚は『岩波写真文庫 広島県―新風土記』



(『戦争を知らない戦後50年』毎日新聞社)


帰りの切符を落とし、若い駅員に救われる

 本郷駅に帰り着くと、まだ夕方も早かった。
 早く帰りついたのは、前年、尾道で終列車に乗り遅れた反省と、被爆後まだ日の浅い広島市内では見て回るところが少なかったからだと思う。
 ところが、わたしは今回もまたへまをやらかしたのである。
 駅の改札口で、ズボンのポケットを探っても帰りの切符が見つからないのだ。
 困った顔をして、もぞもぞしていると、若い駅員が、
 「あんたぁ、あんならの連れか?」
 先に改札口を出ていた3人を、あごで指した。
 重箱を包んだ風呂敷を下げている姿を見れば、一目瞭然である。
 「あんたぁ、もう金は持っちゃいまい。いいから通れ」
 まだ若い駅員の寛大な措置で、無事改札口を通ることができた。
 切符は破れたポケットの穴から落ちたのだと思う。
 汽車を降りるときに、座席や足元を確かめなかったばかりの失態だ。
 わたしの注意力不足と、ものぐさな性質は、いまだに直る兆候がみえないから困ったものである。
 ところで、左の旅客運賃(『復録版 昭和大雑誌<戦後編>』流動出版より)表から、当時の運賃上昇率をみると、昭和22年3月から同年7月の4カ月間に3.44倍、1年後の23年7月に2.58倍、24年5月に1.60倍と、この驚異的な高騰ぶりには目を見張るばかりだ。
 山の生活者にとっては、ほとんど無縁のことであったけれど。



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