第8部 開墾と山の暮らし(2)

2007年11月07日 17:07

 炭がまの明かりで英語の学習

  60年も前のことだから記憶違いを承知で、わたしたちの炭焼きの手順を羅列すると。
 まず、炭がまに火を入れると、3昼夜かけて火を絶やさすことなく、マキを焚き口で燃やし続ける。
 やがて、炭がまの煙突から吐き出す煙が紫色に変わると、かまを止める。つまり、焚き口に土を塗って、かまを密閉するのだ。
 そのまま1週間ほど置いておくと、かまの中の炭材は木炭に焼きあがっている。
 
焼き上がった木炭は、かまが冷めてから外に取り出す。
 それから、釣りバカリで1表分が4貫目(15?:1貫目=3.75?)になるよう量って、俵につめるのである。
  かまは、あまり大きくなかったので、1回に焼き上がるのは30俵そこそこでなかったかと思う。 
ある夜、炭がまの焚き口で火の番をしていた父が、わたしに英語の教科書を持ってくるよう言いつけた。
語学が得意だったと自称する父は、早速、中3の英語のテキストを焚き口の明かりに照らして読んでみせた。
 まるで家庭教師気取りである。
 さらに、“3単現のS”がどうの、ingや過去完了がどうのとか、単語を辞書で引くときは熟語を探すこととか、初歩的・基本的な英文法をひけらかしたりした。
 それはともかく、父は“what”を「ウオット」と発音するので、それは英語読みであって、いまはアメリカ式で「ホワット」と発音するのだと言うと、気勢をそがれたのか「ああ、そうか」と、口をつぐんでしまった。
 それでも、炭がまの炎に照らされたこの夜の父の表情は、生き生きと輝いて見えた。
 山に上がっていらい初めて目にする顔だった。
(上の写真は『岩波写真文庫「村と森林」「日本の森林」』岩波書店)


初めて聞く 父のよも山ばなし

 ついでにこんな話もはじめた。
 自分が京城商業に入ったのは貿易商になりたかったからだ。
 京城では、作曲家の古賀政男の出身校である善隣商業の方が伝統は古い。
 京城商業を選んだ理由のひとつは、新設校で生徒が日本人だけの学校であったこと。
 もうひとつは、たわいない話だった。京商は海軍式の白い巻き脚半(まききゃはん=ゲートル)だったので、それが格好よくて憧れたのだと。
余談だが、父は京城商業の2期生だが、弟の清叔父は歴史の古い善隣商業を出ている。
 話は変わるが、ソ連に抑留された同僚たちへの負い目もあってか、「わしゃ悪運が強い」と、やや自嘲気味に口にすることがしばしばあった。
その一方で、自分はロシア語の通訳2級の資格を持っているから、ソ連に抑留されていても案外活躍できたかも知れないなどと能天気なことを言ったりもした。
抑留者の現状は想像を絶するほど過酷な環境にあったことを、そのころは日本ではまだ知らされていなかったこともある。
ロシア語は牡丹江にいるころ、朝のラジオのロシア語講座を聴いていたのは知っていた。そのほかに、仕事の合間にロシア語教室にも通っていたようだ。
朝、牛乳配達に来るロシア人の太めの女性をつかまえ、しきりにロシア語で会話を交わしたりもしていた。
資質はともかく、父の貿易商の夢はかなわず、戦時中は満州で軍事郵便所員となり、戦後の今は自分で選択したとはいえ山で開墾の日々を送っている
わたしの方は、肋膜炎を患ったまま山に上がり、その後、一度も医者や薬の世話にもなっていないが、それでもかなりハードな労働に耐えられるようになっていた。
一日中森林浴に浸っている山の生活が、自然治癒力を高めたのか、追い詰められた境遇が甘えを許さず、精神力が培われ、病気の殻を突き破らせたのかもしれない。
(炭俵を編む女性『失われた日本の風景』河出書房新社)




コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://saro109.jp/tb.php/120-3efabf7a
    この記事へのトラックバック


    最新記事