第1章 満州国崩壊の序曲(10)

2005年06月16日 11:01

 駅頭で泣きわめく幼児

 八月十一日(土曜日)

 ぼくたち中学生4人は、あてもない列車を待ちわびたあげく、とうとう牡丹江駅で一夜を明かしてしまった。
 空が白けるころにはすでに雨は上がっていた。
 改札口の一番前で手提げカバンをかかえて座り込んでいた中国人の姿は見あたらない。
 われわれがうたた寝しているうちに、列車をあきらめ駅舎を去ったのだろう。
 駅頭に出ると、前の広場には昨夜の雨で、あちこちに水溜りができていた。
 その広場の一カ所に円い人だかりができていて、なんとなく騒ぞうしい。
 そばへ近づいてみると、人だかりの中心には下半身はだかでチンポコを出したままの2、3歳くらいの幼児が、
 「おカアちゃん! おカアちゃん!」
 声をからして泣きわめいていた。
 両手の甲を目にこすりつけて泣くものだから、そのまわりは涙と手の汚れで黒ずんでいた。
 昨夜、国境方面から避難列車で母親といっしょに逃れてきた男の子に違いない。
 長時間、無蓋貨車(むがいかしゃ)に詰め込まれての逃避行だ。
 千人以上の老人と婦女子の集団は、駅に着くと同時に生理現象などでホームにあふれ出たのだろう。 勝手を知らない暗闇の中で用を足しているうちに、もみくちゃにされ母親とはぐれてしまったに違いない。  人垣の中から、なだめすかすようにして、にぎりめしを差し出す人や、そのころでは簡単に手に入らなくなったキャラメルを二、三粒手に持たそうとする奥さん風の女性もいた。
 が、男の子はイヤイヤをするばかりで目もくれず、いっそう激しく泣きわめいた。
 事情を聞こうとしていた周りの人たちも考えあぐね、手をこまねいていた。
 ぼくたちも人だかりの後ろで、それを傍観ぼうかんしていた。

牡丹江駅ほか

(『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満洲』毎日新聞社)


 忘れ得ぬ〝中国人紳士〟
 
 泣きわめく幼児に気をとられていると、
 「学校に遅れるぞ!」
 クリー 2年生にうながされた。
 8時50分の始業時間に間に合わなくなる。
 母が作ってくれた弁当をきのうの昼に食べて以来、今朝までなにひとつ口にしていなかったが不思議と空腹も、のどの渇きも覚えなかった。
 昨日からの異常続きで、気持ちが高ぶっていたせいだろうか。
 それとはまったく別次元の記憶だが、60数年の歳月を経たいまなお、ぼくの脳裏に想い浮かぶ場景がある。
 いつの間にか立ち去っていた中国人紳士のことだ。
 彼とは、言葉のひとつも交わしたわけではない、顔も正面から合わしていないから容ぼうもはっきりしない。
 服装も国民服だったか中国服だったか、それすらおぼろげである。
 鮮明なのは手提げカバンを胸にかかえ、ひとりぽつんと尻を下ろしていた姿だけ。
 それが不思議に、ぼくにとっていまも「忘れ得ない人」になっている。  
[上の写真は苦力たち『満洲慕情 全満洲写真集 <補巻>』満史会編(謙光社)]
 ぼくらが普段見かける満人といえば、苦力クーリーと呼ばれる肉体労働者や荷役夫ら貧困階層だった。
 そのほかでは洋車ヤンチョ(人力車)や馬車マーチョの車夫か商人くらい。  また、道端には物乞いをする乞食が目立って多かった。
 彼らは、すぐ地べたに座り込み、だれかれなく声高にしゃべり、ところかまわず手鼻をかみ、たんつばを吐き散らす。
 近寄ればニンニク臭が入り混じった異様な体臭が鼻をつく。
 日本人から見れば不潔で不衛生極まりない人種だった。
 そうした彼らの民度の低さを見て、当時の日本人が「四等国民」とさげすむのは人間感情として無理からぬところではあった。
 ぼくの「忘れ得ぬ人」は一目瞭然、これらの満人たちと階層の違いは明白。
 わずか一時、すれ違っただけの彼の印象が、ぼくの心に深く残っている。
 
洋車     馬車

[牡丹江駅前にて。洋車と馬車『満州昭和十五年 桑原甲子雄写真集』(晶文社)]



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