第8部 開墾と山の暮らし(1)

2007年10月31日 17:11

村有林に再入植、開墾は一から出直し

 わが家が用倉組合の国有林から放逐されたのは、昭和23年の5月下旬か6月に入ってからだろう。
 開墾して2年近くなる畑と家を捨てることになった理由は、父も母も一切口にしなかったし、わたしも聞こうとしなかったので、真相はいまもってよくわからない。
 ただ、後年になって弟らから聞いた話などから推測すると、農繁期に父は本家の河戸へ農作業の手伝いに出かけ、その間、組合の共同作業には母1人だけ行かせていたことにあるようだ。
 引き揚げてこの方、河戸にはかって気ままなキク婆さんや、三枝叔母と幼子の3人が寄食し、世話になっていた。
 三枝叔母が農作業を手伝っていたとはいえ、もともと農家育ちではないし女手である。
 1人息子を戦争で失った本家の末次叔父さんにすれば、農繁期には男手がほしいし、父にしても食糧難の時代にキク婆さんをあずけているから恩義がある。
 結果的には、そうしたことが国有林から追放される主な原因になったと考えられる。
 父が北方村の村有林組合に移籍し、再入植した場所は松林の中だった。
 父母と小学校3年の弟とわたしの家族4人、すべてが一から出直しである。
 まずは、自分たちの生活の拠点となる家を、自分たちの手で建てねばならない。
 家の柱になる材料は豊富で、伐採した松の丸太が使えた。
 松の皮を剥いだ丸太に、素人大工の父が墨つぼの糸をはじいて線を引き、わたしはその線に合わせて“ちょうな”(手おの)で、はつり4面にしていった。
  
“つ”の字型に曲がった“ちょうな”は、手元が狂うと自分の足を傷つける危険がある。
父に注意を促されながら、必要な数だけ丸太を柱の形に荒削りしていった。
 荒削りした柱の寸法をノコギリでそろえ、位置取りに合わせてノミで溝を掘った。
 にわか棟梁の父の差配ですすめた建築作業だったが、耐震性はともかく、掘っ立て小屋に近い家を組み立てることはできた。
 壁は、そこらに群生している笹竹を格子状に編み、わらを刻んで練り合わせた土を、左官の真似ごとで塗りつけていくと、仕上がりは雑な荒壁となった。
 屋根は国有林の家と同じようにヒノキの皮で葺いたのか、古いトタンを手に入れて打ち付けたのか、そこらは記憶にない。
 ドラム缶の風呂は、国有林時代に使っていたものを運んできた。

開墾は笹竹との格闘から

開墾は、松の木の周囲に群生する笹竹の下刈りと、雑木(ぞうき)を切り払うことから始まる。
 学校から帰ると、カマを手に下刈りをするのがわたしの役目になった。
 下刈りで厄介なのは笹竹だった。
 背丈を越える高さの笹をカマで刈り取っていくと、槍の先のようにとがった切り株が残る。
 うかつにその上に足をのせると“踏み抜き”といって、足の裏から鋭利な笹が突き抜け大けがをする。
 大人たちは地下足袋を履いて作業をしているが、それでもゴム底から貫き抜けるのだから、ワラぞうりだとひとたまりもない。
  医者も薬もない山の生活では、ケガと病気をしないに限る。
 ここで群生する笹竹のさらに面倒なことは、その根が土中に網状に張り巡らされているため、クワを生半可な力で山肌に振り下ろすと、網状の根に跳ね返されてしまう。
 開墾用のクワは扇型で、普通のものよりかなり重量感があるが、それでもしっかり腰を入れて振り下ろさないと、クワがバウンドして手首にしっぺ返しがくるから始末が悪い。
 学校が休みの日は、朝からノコギリとオノを手にして松の木の伐採や、山肌に向かってクワを振り下ろした。
 大きな松の切り株を掘り起こすのは容易でなかった。
 回りに這った松の根っ子をオノで切り、切り株の底から丸太をテコにして、父と母とわたしの3人がかりで、土の中から掘り起こそうとしてもびくともしないことがある。
 掘り起こした松の切り株や、そこらの大きな石は、ネコ車(一輪車)に乗せ、山の斜面に敷いた板の上を踏み外さないように注意しながら、下の道まで運んだ。
 板から猫車が外れると、重さで車輪が土にめり込んでしまうのだ。
 わたしが満州から引き揚げ、山に連れてこられた昭和21年11月には、ヒノキ林に囲まれた国有林の家の周りは、すでに開墾を終えていた。
 わたしの手伝えることといえば開墾されたばかりの畑にまぎれている小石や、細い木の根っ子を取り除くことくらいだった。
 肋膜患者では、そこらが精一杯でもあった。
 それから約1年半も経って、開墾の苦労をみっちり体験させられようとは、よもや思わなかった。
 親子3人での開墾はいっこうにはかどらなかった。
 そのころ用倉組合の人たちは、わずかながらでもジャガイモやサツマイモ、キャベツなどが収穫できるようになっていた。
 心機一転まき直しとはいえ、2年前後のハンディは決定的な差をもたらした。
 わが家の選んだ方向は、手っ取り早く現金収入が得られる炭焼きに傾斜していった。
(ドラム缶の風呂『戦後再考』朝日新聞社)




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