第7部 村の新制中学校(11)

2007年10月24日 14:52

 難問山積の新制中学校と その生徒たち

 「教師が4万人不足している」、「現在、最も深刻な問題は紙不足である」、「生徒には教科書のごく一部しか与えられておらず、多くの科目は教科書が教師の手に1冊だけ、という状態である」
 1947年(昭和22年)4月に導入された日本の新しい教育制度の現状を、マッカーサーの政治顧問、シーボルトは対日理事会で、こう述べている。
 多額の費用を要する6・3制実施のための予算措置についてはお手上げだった。
 全国民がコメを求めて争っている時に、中央、地方を問わず、教育に回す金は最後に出され、切られる場合は真っ先に切られた。
 校舎建設予算は完全に削除され、新中学校校舎の建設用資金は結局集らず、自殺した村長もいた。
 日本国民は混乱し、文部省は新しい教育哲学・方針を求めて苦悩していた。
 以上は、『国破れてマッカーサー』(西鋭夫著、中央公論社発行)の引用である。
 新制中学校は校舎新築の費用をつくるため、宝くじを発行する地方自治体も少なくなかったという。
 だが、わたしの通っていた北方村立新制中学校では、北方国民学校時代の高等科の教室がそのまま転用されたので教室不足に悩むことはなかった。
新制中学校になったからといって、クラスの生徒たちの生活態度は変わることもなく、天真爛(らん)漫そのものだった。
 いや、天真爛漫は少しほめすぎかもしれない。
 田舎の子どもたちは都会の子どもたちに比べ、はるかにませていた。
 一例を挙げると、あるいたずら好きの生徒が、わたしにこんなことを口にしたことがある。
 「脱脂綿に赤チンを塗って女の先生に、“先生、こんなものが落ちていました”と言って持っていったら面白いじゃろうな」
 この不埒(ふらち)な発想の持ち主は、結局のところ実行に移さなかったが、わたしにはそのどこが面白いのか皆目わからなかった。
 >ともかく、男子生徒に限っていえば、生徒の本分は“学校に来て友だちと遊ぶこと”と心得ているから、教科書不足に痛痒を感じる、やわな神経の持ち主はいなかった。
 校則らしきものはあったかどうか記憶にないが、皆のびのびと学校生活を送っていたことは確かだ。
 消えた科目といえば書道。思い起こせば、習字の時間は確かになかった。
 必須科目だった書道を、アメリカ教育使節団は時間の空費と考え、選択科目に格下げされたのが理由だとか。
 文部省は、1947年(昭和22年)8月、中学1年生の社会科用に『あたらしい憲法のはなし』を出版している。
 人気が高かったので、中学校の全学年に配布されたというが、この教科書は手にしたような気もするが記憶はあいまいだ。

 文化と娯楽の中心地は村の学校

 村の文化と娯楽の中心地は学校だった。
 学芸会や運動会は学校の行事だが、弁論大会のような文化活動や娯楽にも学校の施設が利用された。
 ある日曜日、父と2人で本郷からの帰り道、学校のそばを通っていると、講堂から軽快な曲が聞こえてきた。
 ♪屋根が見えます赤い屋根が あなたのお家は川上よ
 窓を開けましょう白い窓を 私のお家は川下よ
 講堂に近づいて窓外から中をのぞいてみると、舞台の上で若い男が床に靴裏をリズミカルに打ち鳴らし、軽快に踊っていた。
 「タップダンスだ」と父がいう。
 曲名は、戦後大流行したスイング調の歌謡曲「愛のスイング」であると知ったのは、ずいぶん後のことである。
 物心ついたころから戦争一色に染まって育ったわたしには、初めて耳にし目にする文化であり、人の心を魅了する娯楽であった。
 新聞もラジオもない山で暮らしていると、新しいニュースに接触する機会はほとんどない。
 この年の6月に社会党内閣、片山哲首相が誕生(翌年2月総辞職)したが、山の生活者たちは無関心だった。
 >10月に東京地裁の山口判事が一切のヤミを拒否し、栄養失調で死亡したとが、新聞記事になっても同様である。
 前述の『国破れて…』(西鋭夫著)によると、日本降伏直後、来日した米国の外交官ジョン・K・エマーソンは「現在、日本人は政治的に無知であるだけでなく、政治に無関心である」と、バーンズ国務長官書に報告している。
 同時に、飢餓の恐怖の中でその日暮らしの生活を送っている国民に、「政党、選挙、民主主義、天皇といったことは、茶碗が空の時には、空理空論の類であります」と。
 8月8日には、東京・神宮プールで古橋広之進が400?自由形で世界新記録(4分38秒8)を出し、ラジオ放送で日本中が沸き返った。
 というが、わたしが古橋広之進を知ったのは、2年後、「フジヤマノトビウオ」と騒がれ始めてからである。
 この国民的快挙が、学校で先生や生徒の口にのぼらなかったのは、村でも無関心な人が大半だったようでもある。

 娯楽といえば、学校の校庭で野外映画の巡回撮影が行われた。
 校庭の真ん中に長い竹のサオを2本立て、白い映画の幕が大きく張られた。
 夕暮れになるとムシロを抱えた人たちが三々五々集って校庭に座をとり、空が暗くなるのを待った。
 映写幕のどちらが表か裏かわからないから便利なもので、観客はその両側に分かれ陣取っていた。
 いざ、映写が始まると使い古された傷だらけのフィルムだから、画面いっぱいに雨が降っている。
 口の悪い奴は、映画の中で「きょうはいい天気だなあ」と台詞をはいても、絵幕の方はどしゃぶりの雨じゃないか、と揶揄(やゆ)していた。
 もうひとつの難点は、途中でフィルムがよく切れることだ。
 フィルムが切れ映像が途切れた瞬間、観客は落胆し、しばらくたって再映されるとホッとする。
 野外映画の観賞は、その繰り返しである。
 当時は、場末の映画館ならフィルムが映写中に切れるのは日常茶飯だったから、無料の野外映画に悪口はいえない。
 映画が終わり、帰りの山道をのぼっていると、前方にいくつか間隔を置いてカンテラと人影が揺れている。脇にムシロを抱えている姿もみな同じだ。
 学校から帰った子どもが親に、学校の校庭で映画があることを伝えたのだろう。
 娯楽に乏しい山の生活だ。
 それは昼間の開墾作業の疲れも忘れ、5?も6?もある夜道をいとわず帰路につく山の人たちだった。


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