第7部 村の新制中学校(8)

2007年09月22日 13:12

 荷車に炭俵を積んで登校

 炭が焼けた翌日から数日は、手製の荷車に炭俵を積んで登校した。
 手製の荷車は、物づくりが好きで手先の器用な梶浦の父君が考案したものだった。
 それまでは、1級下の梶浦、川上、それにわたしの中学生3人は、背負子に炭俵を背負って村の農協まで運んでいた。
 はじめは1表(4貫目、約15?)だったが、わたしが2表に増やすと、梶浦も負けん気で2表に、川上もそれにつられて2表になった。
 そんなある日、3人の中で1番小柄な梶浦が、父君の作った手製の荷車に炭俵5表を積んで登場した。
 新たな輸送手段を目にした川上とわたしは、早速、梶浦から荷車の作り方を伝授してもらい、自分の手で製作にかかった。
 荷車の左右の梶棒になる長い柄(え)は“く”の字に曲がった松の木を見つけ、それをノコギリで縦に切り裂いて作った。
 荷台などはあり合わせの材料で間にあったが、車軸と車輪の軸受けだけは村の鍛冶屋に頼んだ。
 車輪は太い松の木を輪切りにして代用した。
 荷車には炭俵を下段に3表、その上に2表、計5表積むことができた。
 背負子に比べると運送能力は倍増し、肉体的な労苦もはるかに軽減された。
 3人の家の焼きあがり日が重なると、朝、荷車3台が連なって山を駆け下った。
 用倉山から麓(ふもと)の村まで下る道は、比較的緩やかな傾斜道で道幅も村人の牛車が優に通れる広さが保たれていた。
 山道の横は、村の農家が所有する棚田が麓から山頂まで断続的に積み重なっており、もともとは、この棚田で収穫した稲束や、里山で焼いた炭や薪(たきぎ)などを運ぶためにつけられた道だった。
 わたしたちは、村の祖先の恩恵に浴することで、炭の運搬が飛躍的に改善された。
 荷車は坂道が自然の力で背後から押してくれる。
 ただ、斜面がきついところでは推進力が強くなり、足の踏ん張りがきかなくなるそこは、荷台の下から後方に突き出した細長い丸太ん棒をブレーキに使った。
 
梶棒を上にあげ style="padding:5px;">ると荷重が丸太ん捧の後方にかかり、棒の先端が地面に押し付けられ、その摩擦を利用するのだ。
 急な坂道にかかると小学校高学年の男の子たちも、取っ手の外側から手をそえ助勢してくれた。気は心である。
 荷車隊の後方に連れだっていた低学年の子どもたちは、途中から近道に入って先回りし、われわれの姿が見えると、身軽な彼らは先を競って山を下って行った。
 農協の集炭場に着くと、荷車は置きっぱなしにしたまま、肩掛け鞄をかけて学校に向かった。
 しかし、いつも順調にことが運ぶとは限らなかった。
 たまにだが、山を下っているうちに荷車の車輪が突然割れてしまうことがある。
 山道の中央部分は激しい雨で川の跡のようにえぐられ、小さな岩が地面に露出していたりするから、その上を走る車輪が衝撃で破損するのであった。
 なにしろ、松の丸太を輪切りにしただけの単純素朴な車輪だから無理もない。
 そうなれば万事休す。学校の始業時間があるので荷車は山側に寄せ、置き去りにしていくほかなかった。
 後始末は、後刻、通りかかった父や母が見つけ背負子で農協まで運んでくれた。
 背負子だと3表、せいぜい無理しても4表が限度だろう。手製とはいえ荷車なら5表は積める。それでも大人たちは相変わらず背負子を使った。
 直径50?ほどの小さな車輪では座高が低く、大人が引くには不釣合いで風(体裁)も悪いからであろう。
 山の人たちにとって炭焼きは、手っ取り早い現金収入の道であった
 農協に収めると1表いくらになったのか、ついぞ聞くこともしなかったので、いまとなってはわからない。、
(背負子の中学生,自転車と炭俵『[写真ものがたり]昭和の暮らし〈2〉山村』(農山漁村文化協会)、(木炭の配給『昭和二万日の全記録』講談社)


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