第7部 村の新制中学校(7)

2007年09月10日 13:59

 思わぬ伏兵出現に苦闘す

 6月に入り、親指大ほどのサツマイモやジャガイモの収穫期が迫ったころ、突如、イノシシに畑を荒らされる事件が発生した。
 イノシシという伏兵の出現は、入植者たちにとっては想定外だった。
 最初に被害を受けたのは開拓地の中心部から離れたところにある畑だった。
 朝起きて畑を見回したところ、前日まで青々としていたジャガイモ畑がイノシシのスコップのような鼻先で掘り起こされ、根こそぎさらえられたという。
 それまでも、山猿や野ウサギによる被害がなかったわけではない。
 畑に植えたばかりのサツマイモの苗を、山猿に抜き去られるところを目撃したことがある。
 だが、こちらは昼間のことで警戒もしやすく、被害も軽微で済んでいた。
 ところがイノシシは違う。出没するのは深夜、人の寝静まったころを見計らっているかのようにさえ思える。
 畑を針金の柵で囲ったり、わなを仕掛けてみたり、素人集団が知恵をしぼり、思いつくまま、いろいろ防御策を講じてはみるものの一向に効果はない。
 神出鬼没の彼らに翻ろうされ、なすがままに畑は荒らされ続けた。
 「“ピカドン”言うんは、わしらがはじめに付けたんですけぇ」
 復員兵のIさんは、広島の部隊で原子爆弾の投下を目撃し、ピカドンと命名したのは自分たちだと自慢していた。
 その独身のIさんは小川をはさんだ向かいに住んでいたが、いつも就寝前になると表に出て、「せいれつ!」「気お付け!」、「右へならえ!」、「かしら右!」
 軍隊時代の号令を一通り反復した後、「イノシシのバカヤロウ!」と、雄たけびをあげるのを日課としていた。
 イノシシにしてみれば不当な侵略者である人間どもに、バカモノ呼ばわりされるのは心外で、“猪口才(ちょこざい)”なやつめと思っていたかどうか。
 元を正せばイノシシこそ用倉山の先住者であり、新参者の入植者たちこそかれらの生活圏を侵犯していたのだ。
 そうはいっても、こちらも彼らに畑の作物を掠奪されては死活にかかわる問題だ。イノシシ憎しの気もちは、いや増すばかりだった。
 こうして、万策尽きた格好の開拓初年度は、野菜類の不作も重なり、いずこの家も収穫はゼロに近かった。
(上の写真はいずれも『[写真ものがたり]昭和の暮らし〈2〉山村』(農山漁村文化協会)


 農繁期の労働の見返りで飢えをまぬがれる

 春と夏の農繁期になると、父は戦後の農地改革で小作農から自作農になった本家の河戸へ手伝いに出かけた。
 河戸の男手は大叔父の末次さんだけだから、この季節は父を頼りにしていた。
 父の妹の三枝叔母が本家の農業を手伝っていたが、なにぶん女手であり、それに学齢前の長男をかかえていた。
 一人息子を戦争で失った末次さんは、父に本家を継いで欲しかったらしいが、夫が戦後まだ未帰還の叔母を河戸に置いてもらうことにしたようだ。
 末次さんの嫁さんは、病気の後遺症で手足が不自由。
 武家の出を任ずる祖母のキク婆さんは、齢(よわい)60近くになっており、農業の心得もないから百姓仕事を手伝う気は毛頭ない。
 せいぜい庭仕事に毛の生えたことくらいしか出来ない。
 兄嫁意識があってか、居候の身でありながら納屋の一部を改装して貰い、京城(現ソウル)にいたころと同様、お茶とお花の教室を開いていた。
 終戦直後の時代背景や農村の環境を考えれば、生徒が皆無なのは当然だった。
 キク婆さんは上流志向の強い女で、祖父の安月給のなかで女の子まで女学校へ上げたというのが自慢だった。
 朝鮮鉄道の官舎の待遇は、職員と工員とで身分差が歴然としていたという。
 負けん気が強く勝気な彼女が、叔母たちを進学させたのは、職員官舎の人たちへの対抗意識であった。
 香川県の武家の出と、広島県の百姓の次男坊とが、どういう縁で結婚したのか不思議である。
 それはともかく、父が農繁期に河戸で働いた見返りは米やサツマイモや野菜などである。
 父はそれらの食糧を背負子に精一杯積み込み、14?の道のりをひたすら歩いて、用倉山の家まで運んできた。
(写真は『[図説]アメリカ軍が撮影した占領下の日本』太平洋戦争研究会=編 河出書房新書)


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