第7部 村の新制中学校(6)

2007年09月05日 11:09

新制中学校余聞

 昭和22年の新学期に入ると、用倉山から北方村の学校に通う子どもの数は20人を超えた。
  学制改革で新制中学になったばかりの北方中学校へ入学したのは男女合わせて5人。うち2年生はわたし1人で、あとの4人は1年生で男女2名ずついた。
この年の中学1年生たちは、昭和16年の入学時に小学校の呼称が国民学校に変わり、同22年の卒業すると元の小学校に戻った。
「昭和9年遅生まれ、昭和10年早生まれの連中は、時々変な自慢をする」と、作家の柴田翔さんが最近の新聞のコラムに書いている。
 太平洋戦争のころ小学校は、ナチス・ドイツを真似て国民学校と呼ばれていた。 入学から卒業までの6年間を国民学校で通したのは、唯一自分たちの学年だけである。
  もうひとつの自慢は、新制中学の第1期生であること。
 この年の新制中学2、3年生は高等科からの横滑り組で義務教育ではない。だから正真正銘の第1期生はこの学年になるわけだ。
 用倉から北方村へ向かう道路は、昼間もほとんど人は通らないが、登校の時間帯だけは20人を超える子どもの集団でにぎわった。
 とはいえ、通学の集団は男女別に分かれて別行動をとっており、言葉を交わすこともなかった。
 男女共学になったとはいえ「男女七歳にして席を同じゅうせず」、戦前からの儒教思想の呪縛(じゅばく)から、そう簡単に抜けだせなかったのだ。
 集団登校のにぎわいも、雨の日となると様相は一変した。
 わたしには、雨の日に誰かほかの子どもたちと一緒に連れ立って登校した記憶がない。
 理由はそれぞれあるのだろうが、山の子どもたちの多くは学校を休んだのではないかと思う。
 阿久悠さんの小説『瀬戸内野球少年団』を引き合いにだすと、学校では1学級見渡しても、運動靴をはいているのはほんの2,3人、大方が素足に歯のない下駄で、わらぞうりというのも相当数いる。
 雨の日は、そんな足回りで泥田のようになった道路を歩いて登校するのは並大抵のことではなかった。
 平地でもそういう状態だから、山道を下っての登校は難渋を極めた。
  わたしは無いより増し程度の破れた番傘をさし、父が桐の丸太から切り出して作ってくれた下駄を手にぶら下げ、ガタガタの山道を1人下った。
  下駄というものは山道には不向きである。
 岩場は滑るし、大小の石ころは踏みはずすと下駄が傾き捻挫しそうになる。
 だから、山を下りきるまでは裸足で、村に差しかかり地面が平になってところから下駄を履いた。
ところが、父の作ってくれた下駄はたいした代物で、土台が桐とはいえ生木で作ってあるからかなりの重量だ。
 鼻緒はというと、棕櫚(しゅろ)縄ですげ、布も巻いてないから、とげのような繊維がじかに皮膚や親指の付け根に触れ、すれて赤くなりひりひり痛む。
 下駄を脱ぎ捨てたいところだが、村の生徒たちの目があるから、我慢の子で引きずって歩いた。
 村の子どものなかには、小学校唱歌「案山子」の歌詞にある“蓑笠(みのかさ)着けて”登校する男の子も目にした。
 蓑笠か菅笠(すげがさ)だか知らないが、わたしもその笠を頭に通学したことがあるような気もする。はっきり覚えがない。
 そんなこんなで、わたしも雨の激しい日は時折、学校を休むことがあった。
 雨の日は山の大人たちも外の仕事は休み、薄暗い家の中で縄をなったり、炭俵を編んだりしていた。
 縄をなうにしてもぞうりを編むにしても、その前工程としてわら束を水に湿し、木槌で叩いて柔らかくしておく必要がある。
 わたしも木槌を手にわら束叩きを手伝い、自分のぞうりを編んだりした。
 農村の子どもは小学校高学年ともなると、自分のぞうりは自分で作るのが当たり前だった。
 ところで、雨の日の無断欠席について担任の先生に詰問されたり、叱責されたりした記憶がない。
 開拓地の事情を汲んでそこは大目に見てくれたのか、出来たばかりの新制中学校で校則もまだ緩やかだったのか、よくわからない。
(写真は『[写真ものがたり]昭和の暮らし〈6〉子どもたち、(9)技と知恵』(農山漁村文化協会)




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