第7部 村の新制中学校(5)

2007年08月27日 14:07

 学校の田んぼと代(しろ)かき

 先ごろ亡くなった阿久悠さんの小説『瀬戸内少年野球団』を読むと、主人公の足柄竜太が通う淡路島の小学校では、田植えと稲刈りの季節に1週間ずつ農繁休暇で学校が休みになる。
 田舎では、小学生といえども立派な労働力で、鎌を手にして稲を刈りとっていくさまはもう1人前だ、と。
 記憶は薄れたが、わたしの通っていた北方村(きたかたむら)の学校もそうだった。
 また、学校の近くには狭い田んぼがあって、中学生はここで農作業の実習をさせられた。
 農業が本業である農家の子どもたちが、なぜ学校で実習を受けなければならないのか、その理由は分からない。
田植えの前には、馬に鋤(すき)などの農具を引かせ、田んぼの土を細かく砕く“代(しろ)かき”という作業が必要である。
 ところが、教員の中に農耕馬を扱える先生がいないから、3年生のひとりがその作業を受け持った。
 柿内というその3年生が、人馬一体となって代かきをこなしていく情景を、教員は他の生徒たちと田んぼの畦に立ち並び、ただ傍観していた。
 優等生の彼は母と2人暮らしだと聞いている。
 日ごろから一家の大黒柱として農作業をこなしていたからだろう、馬を巧みに扱う彼の動作を見ていると、すでに大人の風格さえ漂ってみえた。
彼はわたしより1級上だったが、後にM重工に同期入社することになる。
その彼は、同社の技能者養成所を卒業すると、1年ほどで会社を辞め、京都の大学で苦学しながら弁護士になっている。
彼が退社の挨拶に来たとき、せっかく入社した会社をあっさり辞めてしまう、その勇気と決断に、わたしはしばし唖然としたのを覚えている。
昭和28年ごろは、まだ世の中が混沌としており、就職もままならない時代である。
学費はともかく生活費をどうするのだろう、それに母親1人を田舎に残して、と。しかし、彼の先見性と思考力は、わたしたち同期生をはるかに超えていた。
(写真は『[写真ものがたり]昭和の暮らし〈1〉農村、〈6〉子どもたち』(農山漁村文化協会)


6カ村対抗の野球と駅伝

新制中学校初年度の昭和22年、北方(きたかた)村、南方(みなみがた)村、沼田東(ぬたひがし)村、沼田西(ぬたにし)村など村近隣6カ村対抗の野球と駅伝が開催された。
3年生の柿内も野球と駅伝の選手に駆りだされた。
“駆りだされた”と表現したのは、わたしの見方によるもので、彼の運動神経は勉強ほど優れていないように見えたからだ。
野球はファーストを守っていたが、練習中、野手からの送球を捕球しそこなうのことがしばしばあった。
『瀬戸内少年野球団』によると、昭和22年ごろの「少年倶楽部」の付録に、野球のグローブとミットの型紙がついていた、とある。
わが校の選手たちも、この型紙を使ったかどうかは別として、それぞれミシンの上手な人などに頼み、シーツのような丈夫な布でグローブやミット、ユニホームなどをそろえた。
 初戦は隣村の南方中学校の校庭で行われた。
 男子生徒は全員テクテク歩いて南方中学校まで応援に出かけたが、勝敗はどうだったか記憶にない。
 余談だが、対戦相手の南方村ではその2年後、マサカリ投法で有名なプロ野球選手の村田兆治投手(ロッテ)が出生している。
 駅伝は選手6人のうち同級の2年生が4人選ばれた。
選手と自転車で伴走する以外の生徒は、2区の中継点である本郷町の本郷橋に朝早くから応援のため集合した。
 やがて1区の走者の姿が見えてきた。
 わが校の第1走者、倉本が他校の選手とトップを競り合っていた。 
(校舎は『[写真ものがたり]昭和の暮らし〈6〉子どもたち』(農山漁村文化協会)
 だが、残念なことに、ゴール手前で先を許し、胸の差ひとつで2位になってしまった。
 倉本は後で駅伝には区間賞があることを知り、
 「そんなんがあるんじゃったら、もうちょっと頑張るんじゃたのに」
 と、しきりに悔しがっていた。
 決勝のゴールも本郷橋となっていた。
 選手は6カ村をつないで走るので、最終ランナーが到着するまでにはかなり時間がかかる。
 わたしたちは、めいめい連れ立って本郷町の中心街を歩いた。
 映画館、自転車屋、散髪屋、本屋、文房具店など店が軒を連ねていたが、なにしろ田舎の狭い町である。
 買い物をするわけでもないので、時間はなかなかつぶれない。
 もちろん本郷町にも中学校はあったが、6ヵ村とは格が違い相手にされるはずがなかった。
 やむなく、駅伝コースの道を逆に向かって、のんびり歩くことにした。
 わが校のランナーは2位か、あわよくば1位で戻ってくるかも、と期待しながら。
 どれほど歩いたか、1位のランナーが走ってくるのがようやく目に入った。
 目をこらして見ると、他校の選手だったので少しがっかりした。
 それでも2位は間違いないだろうと信じていたら、これも違う。さらに3位、4位も。
 わが校の女の先生は、1区の首尾をみて有頂天になり、他校の先生たちに「うちの学校は2位ですよ」と触れ回っていた。
 ところが、ゴールで待てども待てども、わが校のランナーは姿を見せない。
 こんどは逆に、先にゴールに入った他校の先生に同情されるような始末だった、と嘆いていた。
 ブレーキになったのは、3年の優等生だったようだ。
 後にM重工に同期入社した沼田西中学の伴走者が、やや太目の柿内が喘ぎながら他校のランナーに次つぎ抜かれていく様を目撃していた。
 「あれは、見ていて気の毒だったよ」と。
 1区2位の倉本は、中学2年を修了すると憧れていた農協のトラックの助手になった。
 ある日、その木炭トラックが校門の前でエンコし、修理していたことがある。
 校舎の2階の窓から眺めていると、倉本は運転手に怒鳴られながらエンジンの前でクランクシャフトを、汗をかきかき回していた。
 表情は真剣そのもの。わずかな月日しか経っていなかったが、教室にいたころとは別人のようで、寄り付きがたい雰囲気を発していた。
 念願の農協のトラックの助手になってみて、彼はそのころどんな心境でいただろう。
(木炭トラックは『[図説]アメリカ軍が撮影した占領下の日本』太平洋戦争研究会=編 河出書房新書)





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