第7部 村の新制中学校(3)

2007年07月29日 16:23

 組合員らの配慮と厚い温情

 その日、学校から帰ると叔母はすでに棺桶の中に収まっていた。
 棺桶は組合員の中で大工の経験のある人が作ってくれたものだった。
 また、ここから約9?先の本郷町まで河戸の祖母宛に、わざわざ電報を打ちにいってくれた人もいる。
 往きは山を下るにしても本郷まで歩いて2時間近くはかかる。
 その間にバスなどの乗り物はないし、入植者で自転車を持っている人などいるはずもない。
 いまならば本郷駅まで車で20分弱、広島駅でもバスで1時間かからないが、当時は人間の足が唯一の頼りだった。
 言い古された言葉だが「隔世の感」である。
  一方、父は本郷町とは逆方向の北西約12?に位置する河戸の祖母を迎えに出かけていた。
こうした手はずは、すべて初代の用倉組合長らの配慮と厚い温情によるものである。
見ず知らずの叔母のお通夜に、組合員の人たちが昼間の開墾の疲れをいとわず多数駆けつけてくれた。


(上の時間地図は『夢・未来 庭園空港都市』広島県空港港湾空港対策課)

 肺結核の叔母が用倉に住んでいたことなど誰一人知らなかったはずだが、それにもかかわらずである。
 父が60歳になる祖母を連れ立って家に着いたころには、外も暗くなっていた。
 お通夜にきていた人の中には人情のこまやかな人がいて、一面識もない祖母の手を取るようにして出迎え、遠方からの労をねぎらいながら棺の前に案内し、お悔やみの言葉を述べるのだった。
 お通夜に来た人たちは帰途、人跡でできた暗闇の細い道をカンテラで照らしながら、それぞれの家路に向かって行った。
 この夜ばかりは一晩中、小皿の灯心を惜しげなく灯し続けた。
 灯心の炎をぼんやり眺めていると、平安朝時代にタイムスリップしたかのような錯覚にとらわれた。
 叔母の火葬は翌日、組合員の協力で行われた。
 当日、わたしは登校していて現場は見ていないが、そうであったと思う。
 開墾地は地味に恵まれなかったが、その日暮らしながら山の人々の人情は豊かであった。



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