第7部 村の新制中学校(2)

2007年07月22日 15:22

 薄幸な叔母の孤独な死

 昭和22年5月、父の末の妹が用倉で死んだ。
 享年23。死因は肺結核である。
 母の話では、その日も父とともに朝から共同開墾に出かけていていた。
 それが何かの用事で家に帰り、ついでに彼女の部屋をのぞいてみた。
すると、わたしの叔母に当たる彼女は、それを待ちかねていたかのように、
 「お姉さん、長い間いろいろお世話になりました」
はっきりした口調でお礼の言葉を述べると、そのまま息を引き取ったという。
 ちょっと話がうまく出来すぎだが、母のことだから少々脚色を混じえているかもしれぬ。
 その叔母が河戸から用倉へ連れて来られたのは、その年の正月明けだった。
 すでに病状はかなり進行し、結核菌による脊椎(せきつい)カリエスを続発していた。脊椎カリエスは背中や腰の痛みが続き、病気が進行すると背骨がうしろから突出し変形するという。 
(朝日新聞 昭和22年(1947年)1月15日)
 彼女の腰が老婆のように折れ曲がって見えたのはそのせいだろう。
 そんな状態で河戸から河内町を通り抜け、用倉山まで約14??の道のりを、よくも自力でたどり着けたものである。
 この道程には公共交通機関に類するものはないから、交通手段は自分の足に頼るしかない。
 しかも途中の道路は、前年の水害で何個所か決壊していた。
 そこは道路の横を走る山陽本線の線路上を、列車の通過を気にしながら歩かねばならなかった。
 さらに、その先の花園とよばれる地区から用倉山に上がるには、山で製材の仕事をしている男たちの通る細くて急峻な道しかない。
 肋膜炎のわたしも同じ道をたどって来たのだが、彼女の場合は病状がもっと重いのだ。
 地肌がむき出し、石ころでデコボコの山道を、滑らないように這いつくばり、途中で息を詰まらせ小休止しながら、あえぎあえぎ登って来たに違いない。
  もちろん、この時も母が付き添っているが、河戸で貰ったサツマイモや野菜類を精一杯、背負子に負っているから、彼女の手助けすることなどできないはずだ。
 山での叔母の部屋は、掘っ立て小屋の外側の壁から突き出して作った粗雑な小屋だった。
 屋根といっても節穴だらけのヒノキの皮を重ねただけのものであるから、当然、雨もりは激しい。
 雨の日は、破れた番傘を差して寝床についていたという。叔母の部屋を隔離したのは、わたしに結核が感染するのを恐れてのことだろ。
(『漫画昭和史 漫画集団の50年』河出書房新社)
 当初は叔母もわたしたちと一緒に、囲炉裏を囲んで食事をしていたが、ある夜、父が何かの拍子に、
 「お前がここにいると、爆弾を抱えているようなもんじゃ」
 肋膜炎のわたしに結核が感染する危険性と、それをどうにも今の自分には解決出来ないいら立ちとが、あらわに口をついて出たようだった。
 以来、叔母はわたしたちと食事をともにすることもなければ、部屋に姿を見せることもなくなった。
 彼女が鍋や食器を洗いに外に出たおりに、時たま顔を合わすことがあった。
 「ああ、貞夫ちゃんね」
 寂しさの漂う表情で弱々しく微笑みかけるが、決してわたしに近寄ろうとはしなかった。
 そして時々、腰を伸ばしながら後ろ手で背中をトントンと叩き、ゴホ、ゴホと苦しそうに咳き込んだりしていた。
 彼女の姉にあたる上の叔母は、末次夫婦の養子となり農業を手伝っていたから、そのまま河戸に居ても、さほど肩身を狭くせずにすんだであろうと思う。
 何といっても、寝床で雨よけの番傘をさす心配もない。
 上の叔母は父や祖母と違い、心の底から他人に優しい情味の深い心の女性であった。
 妹思いのこの姉に最期を看取ってもらえたらならば、彼女も思い残すことなく、幸せな気持ちで天国にいけたであろう。
 末の妹を用倉に呼び寄せたのは、父が本家の末次さん夫婦に気兼ねしてのことであろう。
 当時は不治の病といわれた肺病を患っているのだ。
 肺病患者のいる家は、近所にも恐れられ敬遠される時代であった。
 引き揚げ直後に死んだ清叔父の妻も肺結核だった。
 続いて末の妹も同じ病とあっては、本家に迷惑がかかることは明白だった。
 本家の夫婦は、どんなことも表情に表さず、嫌みひとつ言わない人たちだから、父としてはかえって心苦しくもあったのだろう。


(『昭和二万日の全記録』講談社)

 叔母姉妹は離れ離れになりたくなかったであろうが、家長である父の命令に従うほかに道はない。
 特に末の叔母は、自分の意思があるのかないか分からないほど従順な女だった。
 なにはともあれ、己の現状と能力の限界を理解できない度量の狭い家長に支配される眷族(けんぞく)は不幸である。
 昨年、わたしが河戸にいたころ、叔母姉妹がどこかのラジオ放送で聞き覚えてきたのだろう、「僕は特急の機関士」を、楽しげに口ずさんでいた2人の幸せそうな姿が思い浮かぶ。
 死んだ叔母の腰は、そのころはまだ曲がっていなかった。

♪僕は 特急の機関士で 可愛い娘は駅毎にいるけど
3分停車ではキスするヒマさえありません
東京 京都 大阪 ウウウウ ウウウウ ポポ


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