第6部 戦後の開拓地で(13)

2007年07月09日 11:01

 不毛の開墾地と食糧調達に腐心する主婦たち

 父が開墾に上がった動機は極めて単純だった。
 戦後の食糧難を切り抜けるには、開拓事業に参加するのが最もよい選択だと思ったらしい。
山林を拓き、耕した地面に種をまき苗を植えれば、簡単に作物が収穫できるという感覚である。
これには満州での体験が大きく影響していた。
満ソ国境近くの官舎に住んでいたころ、裏の畑にジャガイモやトマト、なすびといったものを植えると面白いほど収穫できた。
肥沃(ひよく)な土地だったのだろう。
肥料といえば、近くの山砲部隊の周辺に延々と積まれていた馬ふんを取ってきて畑にばらまくに過ぎなかった。
耕作地には肥えた土地と、やせた土地があることすら知らなかった。
開墾したばかりの土地はやせていた。
農業の経験がない素人集団が、あれこれ試行錯誤を重ね作物づくりに挑戦するが思ったような収穫は得られなかった。
 当時配給される食糧といえば、わずかな米にサツマイモのつるを乾燥した粉末、米ぬかやフスマ(小麦のかす)など。
用倉での生活は自給自足どころか、主婦たちは食糧調達に奔走するのが主要な任務のひとつとなった。
 村の農家を一軒、一軒頭を下げて回り、サツマイモや野菜などを分けてもらいに歩く。
こうした光景は、敗戦後の日本では全国津々浦々(つつうらうら)で見られたことで用倉もその例外ではなかった。
 詳しいことは知らないが、開拓地の収入は開墾した面積に応じて国から開拓補助金が支給されることになっていた。
それが遅配することが多く、どの家でも配給の食糧を買う金に事欠いていた。
40世帯前後の入植者は開墾のあいまに日雇い労働に出たり、マキ作りや焼きを覚えたり、各自の裁量で現金収入の道を求めるしかなかった。
早ばやと先行きに見切りをつけ、山を去る人たちも出てきた。
一時期、母はどこで聞き覚えてきたのか箱型のタバコ巻き器とタバコの葉、巻紙など一式を買いそろえ、夜なべでタバコ巻きを始めた。
夜中に小皿の灯心を頼りに1本1本タバコを巻き、早朝、片道9?先にある山陽本線の本郷駅まで、通勤者目当てに売りに出かけたりもした。
(挿絵の漫画は『漫画昭和史 漫画集団の50年』河出書房新社)


山猿たちの昼食場と大根メシ

 「用倉に入植した闖入者(ちんにゅうしゃ)たちを、あまり歓迎していない村人たちもいたようだ。
「用倉の人たちゃ、外地でいままでさんざんぜいたくな暮らししとったけえ、そのバチがあたったんよ」
 こうした陰口や風聞を耳にすることもあった。
 「用倉で山の木、切ってしもうたら洪水になるで」
 山林伐採による自然災害の発生を懸念する長老たちもいた。
 「用倉の山猿!」
子どもたちの社会は、いつの時代も残酷である。
 用倉から通う低学年の子どもたちは、村の心無い子どもたちから、からかわれたりしていた。
 用倉の子どもたちにとって苦痛の一つが昼食だった。
 弁当はおかゆのような大根メシとか、いもメシである。
 そんな弁当を学校で食べるのが恥ずかしいのだ。
 空腹を我慢し学校が終わった後、帰り道で食べたりしていたようだ。
 村はずれの山のふもとから、すこし登った所に平たい大きな岩場があった。
 そこが彼らの昼食場だった。
 わたしも午前中に授業が終わった時は、彼らの仲間入りをした。
 眼下の農家がすべて裕福に見えた。
 家々の瓦屋根や豊に実った田畑を眺めながら食べる弁当の中身は、食べるとかえって腹が減るような大根メシがほとんどだった。
 そばに座っていた小学2年生の男の子が、
 「大根メシは、あまり噛まずに飲み込んだ方が、腹がふくれた感じがする」
 と、わたしに勧めた。
 少しでも空腹感を和らげるために小さな知恵をしぼり、試行錯誤を重ねて到達した彼なりの結論なのだろう。
 その彼の親切な助言も、わたしが試した限り、効能はほとんどなかった。

(買い出しの写真は『[図説]アメリカ軍が撮影した占領下の日本』太平洋戦争研究会=編 河出書房新書、スラム街の写真は『敗北を抱きしめて<上>第二次大戦後の日本人』岩波書店 ジョン・ダワー著)



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