第6部 戦後の開拓地で(11)

2007年06月27日 19:43

 墨塗り教科書と農協の木炭トラック
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 科目の名は覚えてないが、隣り合わせで見せてもらった教科書の一部がすずりの墨で黒塗りされていたのには面食らった。(右の図は『戦争と庶民 1940~49』朝日歴史写真ライブラリー発行より)
 戦前の学校では、教科書に落書きしたり汚したりするなど想像もつかないことだ。
 教科書を粗略に扱おうものなら、先生にこっぴどく叱りつけられ、非国民呼ばわりされかねない。
 敗戦の年の9月20日に文部省から各都道府県に「終戦ニ伴フ教科書用図書取扱方ニ関スル件」が出され、教科書の墨塗りが始まった。
 軍国主義を強調し、戦意高揚をうたうような箇所が対象とされた。
 この墨塗りを体験した世代を、「墨塗り世代」(教科書のそれまで戦争を鼓吹していた部分を教室で塗りつぶして使用した世代)と呼ぶそうだ。
 『子どもたちの太平洋戦争―国民学校の時代―』(岩波新書 山中恒著)によると、教科書の墨塗りはあくまでも、文部省の命令であって、占領軍命令ではなかった。
 教科書監修官たちが、戦前の教育内容を占領軍の目からかくそうとした、あるいは不適当な教材は削除し誠意のあるところを見せるため、という二つの説がある。
 いずれにせよ、自分たちの立場をなんとか糊塗しようというものであった。
 それにしても、敗戦後1年半経ってもなお改訂教科書が発行されていないのか疑問に思っていたら、原因は意外と単純なところにあった。
 朝日新聞(昭和22年2月4日)の見出し記事「ノートは年1冊 紙危機の実態をきく」のリードを読むと、
 いかがわしい本があふれているのに、一方では新しい教科書がつくれないという……」
 深刻な紙不足が原因らしい。
 いかがわしい「カストリ雑誌」類は、闇のルートで紙を手当てしていたらしい。



 走るのは無理だったが、北方村の国民学校まで約5?の山道を通う程度の体力は回復していた。
 同校の高等科1年生は30人前後、男女ほぼ半々だった。
担任は編入生のわたしを、満州の中学校からの転校生だと紹介した。
 それを聞いて、ある生徒はわたしのことを「満州の忠中(ただちゅう)に行っとたんじゃげな」と、身近な中学校の例をイメージしたようだ。
 忠中とは、旧制の忠海中学校(現忠海高等学校)のことで、瀬戸内海沿いの国鉄呉線の忠海町にあった。
 話はそれるが、昭和25年、この忠海高等学校を舞台に藤田泰子(ふじた やすこ)・鶴田浩二(つるた こうじ)共演で、映画『エデンの海』(吉村公三郎監督)が制作されている。
 瀬戸内の女子高校を舞台に青年教師と女子高生の純愛を描いた青春映画で、その後2回もリメークされている。
 リメークの数だけでみれば『青い山脈』並みだ。
 ちなみに3回目(昭和51年)のリメーク版は、山口百恵が主演である。
  
 この近辺の村から中学校に進学する生徒は、ほとんどこの忠海中学に自転車で通学していた。
 戦前は農村から中学校に通う生徒はほんの一握り。
 村でも大地主や名主といった有力者の子弟などであった。
 また、当時の義務教育は国民学校6年までだから、全員が高等科に進むわけでもない。
 その高等科1年生たちだが、“満州の忠中”から転校してきたわたしに、なんとなく一目置いている様子だった。
 クラスのほとんどが小学校1年生からの持ち上がりで、途中から入ってきた新参者とどう付き合ってよいか戸惑いもあったようだ。
 とはいえ、転校生の能力のほどを試してみたいのは、どの学校の在来生でも変わらない。
 クラスに4年生の時に転向してきたという男子生徒がいた。
 その太田(仮名)は、クラスの中で勉強が一番よくできると皆が認める生徒だった。
 彼は休み時間、教室の後方に立てかけられていた黒板に向かうと、英文字をすらすらと書き並べていった。
 周囲に集った生徒たちの好奇の視線は、わたしに向かって強く注がれているのが意識された。
 大田は独自で覚えたらしいローマ字を得意げに黒板に書き綴っていたのだった。
 周りの誰かが、わたしに向かって「分かるか?」と、反応をうかがった。
  わたしの中学校では在学中、敵性語である英語の授業はなくなり、アルファベットもまともに習っていなかった。
 無念だが首を横に振らざるを得なかった。
 だからといって、その後もクラスの誰ひとり元満州の忠中生をあざけったり、さげすんだりすることはなかった。これは意外だった。

 「農協のトラックだ!」
 授業中に遠くからトラックのエンジンの音が聞こえて来ると、耳ざとい男子生徒らは窓の方を気にしはじめ、ざわついた。
 村で唯一の文明の利器である農協の木炭トラックに、男子生徒の多くが憧れていた。
 農協のトラックが休み時間に学校の前に差しかかろうものなら、いっせいに2階の窓から身を乗り出し、たった1台の木炭車に目を輝かせていた。
 この村は敗戦後もずっと無風で、子どもたちが進駐軍のジープを見かける機会もなかったようだ。
 当然、アメリカ兵の乗ったジープに群がり、「ギブ・ミー・チョコレート」とか「ギブ・ミー・チュウインガム」と叫んだ体験はないはずである。


(木炭トラックの写真は『[図説]アメリカ軍が撮影した占領下の日本』太平洋戦争研究会=編 河出書房新書)、カストリ雑誌とジープのアメリカ兵の写真は『敗北を抱きしめて<上>第二次大戦後の日本人』岩波書店 ジョン・ダワー著)


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