第6部 戦後の開拓地で(10)

2007年06月19日 22:52

 遺品の少年倶楽部と少年小説

 佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』や『少年賛歌』、佐々木邦の『村の少年団』や『愚弟賢兄』など単行本数冊と、月刊誌の『少年倶楽部』などを、ごっそり譲り受けた。
 戦死した河戸の跡取りが、少年のころ愛読していた本である。
 それにハーモニカも。
 戦前の小作農の暮らしぶりはよく知らないが、貧しい農家でこれほどの本を子どもに買い与える家は少なかったのではなかろうか。
 河戸の末次さん夫婦にとっては息子の大切な遺品だったのだろうが、肋膜炎が完治しないまま用倉で無為な日々を送っていたわたしにとっては有難かった。
 話しは替わるが、詩人の故サトウハチロー、作家の佐藤愛子、劇作家の大垣肇の3兄妹は、いずれも佐藤紅緑の腹違い子どもであると知ったのは、まだ最近のことだ。
 紅緑の私生活の乱脈ぶりは佐藤愛子の『血脈』に詳しいが、彼の少年小説にでてくる主人公といえば貧しい田舎の少年が多く、素朴な正義感、友情、義理人情などがモチーフになっている。
 紅緑は天性のストーリーテラーと言われるが、現実の人物像を知ると苦笑するほかない。
 それはともかく、昭和初期の『少年倶楽部』の人気はすさまじかったらしい。発売日には行列ができたほどという。
 戦死した末次さんの息子も町の本屋まで本代50銭を握りしめ、遠路はるばる駆けつけていたのであろう。
 わたしが国民学校5、6年生のころの購読していた『少年倶楽部』は、すでに戦争末期で発行は隔月間となり、ページ数も極端に減少し、内容も米国に対する敵愾心(てきがいしん)や戦意を鼓舞する読み物で埋まっていた。
 わたしが譲り受けた『少年倶楽部』は、まだ日米が友好的なころのもので、昭和9年11月にベーブ・ルースやルー・ゲーリッグなどの全米チームが初来日した記事が掲載されていた。
 表紙の色彩も鮮やかで、別冊や豪華な組立模型などの付録が盛りだくさんあった。
  この時期の雑誌界は付録全盛の時代だったが、昭和12年7月の盧溝橋事件勃発を契機に中断された、と。(『昭和二万日の全記録』講談社より。写真類も)


 高等科1年に編入、1年半ぶりの復学

 ある日、父がニコニコ顔で帰ってきた。
 こんどの学制改革で北方村に新制中学校が出来る。いま北方国民学校の高等科1年に編入しておけば自動的に新制中学校に進めるというのだ。
 学校のことが、父も気になっていたようだ。
 それ以前に、岡山県の実家に引き揚げていた忠利叔父(父の妹秀子の夫)から、自分の通っていた中学校に入るようすすめられていた。
 秀子叔母夫婦は牡丹江から新京(現長春)に避難していたが、2歳の長男を亡くしたものの無事だった。
 忠利叔父はお互いの無事が確認できると、わざわざ用倉まで訪れ、わたしたちの暮らしぶりを見届けに来たのだ。
 叔父が用倉に来るとき、「用倉山」まで行くと人に話したら、生活が苦しいから「よう暮らさん」ので見に行くのか、と聞き間違えられたという。
 当時の用倉の生活ぶりはそのとうりだったから、勘違いも言い得て妙だった。
 叔父は帰るとき、わたしを岡山に連れて行くことにした。
 山陽本線の岡山駅から津山線に乗り換え、福渡駅で降りてかなり離れたところに叔父の実家はあった。
 実家は母と同じ瓦屋だったが、こちらの方が少し規模が大きい。
 戦後の復興期で瓦屋は繁盛しているようだった。
 叔父はわたしの学校のことを心配していて、ここから自分の通っていた中学校に転入するようすすめた。
 彼は父の面子をおもんぱかってか、父には直接切り出しにくかったらしい。
 帰り際に、君の口からお父さんに直接頼むよう念を押された。
 だが、わたしは父にその話は切り出さなかたった。
 「他人の世話にはなりたくない」
 頑迷で融通の利かない性格を知っていたからだ。
 昭和22年の2月ごろ、すでに3学期に入っていたが、わたしは北方国民学校高等科1年に復学した。


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