第6部 戦後の開拓地で(8)

2007年06月11日 15:37

 ソ連軍侵攻で満州に戻れなくなった父

 昭和20(1945)年8月9日。
 朝鮮の京城(現ソウル)にいた父(38歳)は、ソ連軍の満州侵攻を知る。
 寝耳に水だ。取るものも取り敢えず京城駅から汽車に乗り満州に向かうが、ソ連軍の進撃が早く、どのルートの列車も不通になる。
 入満の術を失い帰満を断念。
 ひとまず内地に引き揚げ、再度、満州に渡ろうと試みるが、これも失敗に終る。
 当時、京城と満州の牡丹江(ぼたんこう)を結ぶ普通列車は、朝鮮半島の日本海側(東側)を通り、鮮満国境の図們を経由するのが通常のルートだった。
 最初に父が乗った列車は、当然このルートである。
 だが、朝鮮領内を走っているところへソ連機の機銃掃射をうける。
 その時、同じ客車の座席に潜り込んでいた隣の男は、不運にも機銃掃射の弾痕を背中に残して即死。
 すんでのところで父は命拾いをする。
列車は不通となり、いったん京城へ引き返す。
こんどは黄海側(西側)を走る新義州経由の列車に乗り換える。
こちらも途中から列車は進行できず、満州に入ることは不可能であることを知る。
帰満をあきらめた父は、京城の清叔父(33)の家に舞い戻るしかなかった。
ソ連軍の侵攻直前に召集を受けた叔父も、召集解除になって帰宅する。
入隊はしたものの主要な武器弾薬はなく、小銃も支給されず、銃剣の中身は竹光だったという話だ。
日本の軍隊は末期的症状を呈していたのだ。
9月に入り、京城では内地への引き揚げが始まる。
 父は叔父とともに、祖母(57)、叔父の妻(30)と長女(6)、次妹の三枝(27)と長男(4)、末妹のサダ子(23)の総勢8人を引き連れ、広島県河戸の本家へ押しかけることになる。
 叔父の妻は、前章で述べたように担架で運ばなければならないほどの重患。
サダ子叔母もそのころ結核に感染。三枝叔母の夫は出征中だった。
 父が京城へ行ったのは清叔父に召集令状が来たためで、叔父の家に同居していた一族を満州に連れてくる予定ではなかったか。
 そこへ突如、ソ連軍の満州侵攻である。
 結果的に、京城の一族郎党を満州ではなく、疎遠な内地の本家に連れて行くことになろうとは、父もまさかの思いだったろう。(地図は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満州』、写真は『同[1]朝鮮』毎日新聞社)


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