第6部 戦後の開拓地で(6)

2007年06月04日 14:19

 戦後余話、杉野生存説と東條実弟のルンペン

  ♪轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸
 荒波洗ふ デッキの上に
 闇を貫く 中佐の叫び
 「杉野は何処(いずこ) 杉野は居ずや」
 尋常小学校唱歌『広瀬中佐』のなかで歌われた杉野兵曹長の生存説を聞いたのは、河戸の三枝叔母からだった。
 杉野兵曹長は、日露戦争で旅順港閉塞作戦に従事し、日本初の「軍神」となった広瀬中佐と運命をともにした軍人である。
 新聞に載っていたのを、村の誰かから三枝叔母が聞いてきたらしい。
 杉野生存説には信憑性に欠けるところがあり、何の感慨もわかなかったが、今もなぜか記憶に残っている。
 つい最近、朝日新聞縮刷版(復刻版)をめくっていると、東条英機大将の実弟が昭和22年2月に大阪でルンペンをしていたという記事が目に止まった。
 こちらの方は、時間的距離が身近なせいか興味をそそられた。
 実弟がルンペン生活をしていたころ、兄英機の家族はどんな暮らしをしていたのだろう。
 「戦犯家族はどうしているか」(『レポート』23年7月号)という特集記事が、復録版『昭和大雑誌 戦後篇』流動出版)に掲載されている。
 [東條]の項の一部を拾うと、
 住所は世田ヶ谷区玉川用賀町。
 洋風の玄関に「東條輝雄」の表札がかかっている。
 輝雄氏は大将の次男だが、いまはこの家に輝雄氏一家4人のほか、大将婦人のカツ子さん、三男の敏夫さん、長女光江さん、三女幸枝さん、四女君江さんと、総勢9人が一しょに住んでいる。
 カツ子さんは、家の裏手の畠で終日まつくろになって働いている。
 家計を切りつめる意味もあろう。(中略)
 輝雄氏夫人の美代子さんが大将の四女君江さんと一しょに、こえ桶をかたわらに黒い畑土をたがやしていた。(中略)
 東條家の金銭収入としては、輝雄氏の俸給、仙台の英隆氏(長男)の若干の仕送り、それに「無職」のカツ子さんが「生活費」として毎月預金から引出す爪のあかほどの金額があるだけ(中略)。
  一家総がかりの畠仕事のほかに、娘さんたちは洋裁や編ものなどで家計をたすけているそうだ。
 東條家は英機の父も陸軍中将で軍人の血統だが、長男次男は軍籍に進んでいない。極端な弱視だったからという説がある。
 次男の輝雄氏は、昭和12年に東京帝国大学航空学科(機体専修)卒業、三菱重工に入社。
 堀越二郎氏の設計チームに配属され、零戦の設計に従事。
 戦後は一時、日本航空機製造設計部長として戦後初の国産旅客機YS-11の開発に携わる。
 昭和56年 三菱自動車社長
 昭和58年 同社会長
 なお、長男の英隆氏は戦後、笹川良一氏に迎えられ日本船舶振興会に勤務していた。


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