満州余話(4)

2008年06月08日 15:18

 三浦兵長とお姉さんの淡い恋
 「これから川崎さんの家(うち)を見に行こう」
 あれは遠足の帰り道だったか、放課後だったか記憶はあいまいだが、高学年のぼくら数人は、三浦先生にこういって誘われた。
 といっても、家のすぐ側まで近づくわけでもなく、少し離れた丘の中腹に立って、建物の外観を遠望しただけのことである。
 ましてや、慰安所などというものを知らない学童たちを連れて、家の中に入ろうはずもない。
 その時、建物内部の形状や構造を見ることができなかったのは残念だった。
 いまは建物の外観すら思い出せない。
 それはともかく、この時の先生の意図が皆目つかめなかったが、いまになって推測してみると、次のようなことではなかったか。
 川崎さんは、その日の学校での出来事を逐一、お姉さんたちに報告していたらしい。
 満ソ国境という異境の果てで、閉ざされた生活を強いられている慰安婦の姉さんたちにとって、経営者の娘がもたらしてくれる学校の情報は、違った世界と接する唯一の楽しみであったのではなかろうか。
 ある昼休みのこと、川崎さんは「○○姉さんから頼まれたから」と言って、先生の弁当の中身をのぞかせてもらっていた。
 「軍隊のおかずに特別なものなどないよ」
 三浦兵長は、所属の歩兵部隊の炊事班で詰めてもらった飯盒(はんごう)の蓋(ふた)を開け、気軽に見せていた。
 お姉さんたちが学校の話題で最も関心を持っていたのは、この若い三浦先生にあったことは容易に察しがつく。
 いつも遊びに来る兵隊たちとは異質で、純潔な先生に興味を持ち淡い恋心を抱いたとしても不思議ではない。
 あの時の先生の行動は、メッセンジャー・ガールの彼女が、お姉さんたちに頼まれて仕組んだのではないかと思う。
(飯盒と軍衣は『帝國陸軍 戦場の衣食住』学習研究者)
 その翌日だったろうか
 「○○姉さんて、あの3人の真ん中の女(ひと)?」
 学校で2人が、このような会話を交わしているのを耳にした。
 先生にしても、自分に関心を持っている女性を、一目見てみたくなるのも人情というものである。
 彼女は、お姉さんたちと示し合わせて遠目の逢瀬(おうせ)をお膳立てしたのではなかろうか。
 ぼくたちは、周囲の目をカムフラージュするために、うまく利用されただけのようだ。そこはメッセンジャー・ガールの面目躍如というところか。
 三浦兵長はその年(昭和19年)の秋、フィリピンへ転戦する途中、輸送船が敵潜水艦に撃沈され戦死。享年24と聞く。
 ぼくが10月半ばに牡丹江近郊の海林(はいりん)に転校した直後のことである。
 海軍兵学校を卒業したばかりの弟が戦死したとの報を受け、その仇を討ちたいと南方行きを志願したという。


(『知られざる戦没船の記録 断末魔の海上輸送』戦没船記録する会編、拓殖書房)

 元ダイエー会長の故中内功氏は、日本経済新聞の『私の履歴書』(2000年=平成12年1月5日)で、南方行きの状況を次のように記している。
 綏芬河近くの綏南(すいなん)の独立重砲兵第4大隊に入隊していた。
 1年半後の昭和19年夏、大隊長は第4大隊全員を営庭に整列させた。「軍の要請で南方へ転戦する。志願者、一歩前へ」と命令が下る。だれも死ぬ確率の高い南方へは行きたくない。だが、1人が前へ出ると急に空気がはりつめ、「現役兵は全員一歩前へ」出ざるを得なくなる。
 600人がフィリピン行きだ。(略)先発船団は台湾南のバシー海峡で敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、約20隻の船団の半数近くが撃沈されてしまった。

石門子部落の不思議

 石門子の国民学校は、高い土塀に囲まれた満人部落の中にあった。
 学童数は十数人で、そのほとんどが満人部落内に住んでいた。
 石門子憲兵分所長の志田准尉の子どもたちも、部落の中でもっとも大きな家から通っていた。
 部落の外から通っていたのは3人だけ。慰安所から通う川崎さんと2級下の松本君、それに軍事郵便所(軍郵)のぼくである。
 また、親が軍人軍属の家庭は志田姉弟とぼく、あとはすべて民間人の子どもだった。
 本間校長は別として、「満州国詳細地図」にも載っていない国境の満人部落に住みついている日本の民間人の職業はよくわからないが、母は軍の御用商人だと言っていた。
(写真の城壁は石門子部落の東門と雰囲気がにている。ただし、塀は土煉瓦で高さも低く、これほど立派でない。『別冊1億人の昭和史[4]続満州』毎日新聞社)
 学校では一度だけ本間校長のオルガンによる音楽の授業があった。
 オルガンは部落の満人学校から借りてきたものだった。
 本間校長と三浦先生の2人が、リヤカーに積んできたのだが、教室に運び込むと、三浦先生はオルガンの鍵盤をオキシフルを含めた脱脂綿で丁寧に拭いていた。
 先生曰く、満人の先生の手に触れたところだからと。
 “満人は不潔”という日本人の固定観念は容易にぬぐえぬものらしい。
 当時、満人の子どもが学校に通うなどまれ。ところが、この学校にはオルガンまで備わっている。
 戸数は50戸か60戸ほどの農業中心の部落で、これらの財源をどうやってねん出できたのか、これも不思議の一つである。
 部落の外の平たい丘の上で、満人学校と合同で運動会が開かれた。
 両校の子ども数は同じくらいだったと思う。競技の内容も覚えていないが、あちら側は日本人に遠慮勝ちだし、こちらも真剣に競う気はないから、しまらない運動会で終始した。


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