満州余話(1)

2008年05月19日 20:26

  観光客に開放された東寧要塞


 10年ほど前になる。上の記事を目にしたとき、1999年6月中旬から、観光地として公開された「東寧要塞(とうねいようさい)」とは、“勝鬨(かちどき)陣地”に違いないと直感した。
 記事の内容はおおよそ次の通りである。
 旧日本軍が戦時中、中国東北にある黒竜江省東寧県一帯の旧ソ連国境沿いに11の大規模要塞群を築いた。
 そのうの一つ、「東寧要さい」が観光地として観光客に開放され、愛国主義教育の拠点となっている。
 東寧県は旧日本軍が1933年(昭和8年)に占領。35年以降、中国人労働者17万人を使って大規模要さいの建設が始まった。
 東寧要塞一帯には、軍用飛行場が10カ所、地下弾薬庫が84のほか、慰安所なども設けられた。
 45年8月9日に参戦した旧ソ連軍が要さいを攻め。旧日本軍はろう城して抵抗。4月30日に降伏した際には、兵士ら150人の犠牲者を運んで出てきたという。

 関東軍が誇る要塞線の命運

 関東軍(旧日本軍)が“東洋のマジノ要塞線”と、密かに誇った満ソ国境沿いの永久要塞、虎頭(ことう)・東寧・綏芬河(すいふんが)の3陣地は、昭和20年8月9日未明、ソ連軍の突如の満州侵攻によってそれぞれ悲劇的な命運をたどった。
 
(『最後の関東軍 勝ちどきの旗のもとに』白金書房)

 ソ連領イマンを望む虎頭要塞では、ウスリー河を渡って進撃してくるソ連軍に守備隊1400名と、近在から避難した在留邦人約300名が要塞に立てこもって激しい抗戦を展開。
 虎頭守備隊は十数倍のソ連軍との砲撃戦の末に地下陣地からゲリラ戦で立ち向かった。
 ソ連軍の包囲網は日を追って狭まり、虎頭の各陣地は寸断され孤立。ついに8月26日、歩兵第2中隊の斬り込みを最後に組織的な抵抗は終わりを告げた。
 奇跡的に脱出して日本へ生還したのはわずか53名。要塞内に避難した民間人は10人余の生還が確認されるのみである。
 綏芬河の鹿鳴台守備隊も8月15日の敗戦を知らず、なおも組織的な戦闘を続け、27日までに約1千名が玉砕した。(『別冊1億人の昭和史 虎頭国境守備隊の最期』毎日新聞社、右の写真も)
 先の2要塞と命運を異にするのが東寧である。
 同守備隊では勝鬨陣地の850人が26日まで戦闘を続け、ようやく停戦を受け入れた。
 戦死行方不明は150人。一方、ソ連軍の損害は、勝鬨陣地の十数倍に及んだという。
 勝鬨陣地の独立歩兵第783大隊には、なお1カ年分の弾薬食糧と地下25?の永久要塞によって、ソ連の大軍と戦いつづけ得る余力を持つ守備隊であった。(『関東軍総司令部』楳本捨三著、経済往来社)


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