第8部 開墾と山の暮らし(9)

2008年01月10日 14:18

 卒業後の進路に迷うが思わぬ展望が

 昭和24年(1949年)1月15日、国民の祝日として初の「成人の日」を迎えたが、特別な記憶はない。
 中学3年の3学期に入れば、そろそろ卒業後の進路について考える時期である。
ところが田舎の学校だったせいか、教室内の雰囲気は、いたってのんびりしたものだった。
 男子生徒の皆がみな、農家の跡とりではないはずだが、進学とか就職に関する話題が口の端にのぼることはなかった。
 卒業後のことは、成り行き任せ、他人任せといった趣である。
 わたし自身も、満州から引き揚げてから、ずっと山と学校を往復するだけの日常だったから、世間一般の動向にはまったくうとかった。
 世の中にどのような職業があるのか、何の知識も情報も得られない。
 空っぽの脳みその中で、進路について、ただもんもんと思いを巡らし、考えあぐねている状態だった。
 戦前は、立派な軍人になって、武勲をたて、名誉の戦死を遂げること、それが軍国少年の一般的な考え方だった。
 ほかに選択の余地はないから、将来の進路について、いささかも迷う必要はなかった。
 陸軍に入るか海軍か、航空兵になるか戦車兵か、といった選択肢はあるが、それは兵隊になるという大きな枠組みの中での選択である。

 学校の帰り、山道をのぼりながら、ふと天文学者になりたいと、突飛なことを思いついたことがある。
 少年雑誌を読んだか、なにかの影響だろう。
 星座は北斗七星くらいしかしか知らないのにどうしてか、自分自身にもよくわからない。
 大げさに言えば、天体望遠鏡で星空とにらめっこし、地上の人間界のわずらわしから逃れたい、という単純な思考からきたようだった。
 進学は頭からなかった。
 小学校低学年のころ、「お前みたいなバカは学校へ行くのは“もったいない”から働け」と兄に言われたことがある。
 中学受験はまだ先の話しだし、兄に学費を出してもらうわけでもないのにである。
 その時は、兄の真意をつかみかねた。
 小学校2年生の夏休みだったろうか。
 夏休みの終わる前日まで遊びほうけていたわたしは、夕方になって切羽詰まり、泣きべそをかきながら宿題と格闘するはめになった。
 その間、書き取りの宿題まで兄に手助けしてもらった記憶がある。
 わたしの勉強嫌いは、父も承知だったから誰の目にも歴然としていた。
 だから無理して上の学校へ進むことはない、という兄のメッセージだったのかもしれぬ。
 言葉にも時には妙な呪力が宿るのか、“もったいない”の方は、わが家の経済状態で、すでに雲散霧消していた。
 問題は“働け”の方だが、こちらは思わぬところから展望が開けた。
 2月に入ると、学校に三原市の職業安定所から、三菱重工業三原車輌製作所で技能者養成工を募集しているという話が持ち込まれた。
 養成所に入ると、3年間勉強させてもらえる上、給料まで支給されるという触れ込みだった。
 養成所では、1年生は週6日のうち4日は学校で授業、残り2日は工場で実習、2年生になると、これが3日ずつとなり、3年では2日と4日になる。
 さらに優秀な者は選抜され、技術員教習制度で1年間の教育を受けると将来、技師になれるという話もあった。
 担任をはじめ先生たちは、ぜひ受けるようにと勧めてくれた。
 わたしも技師という言葉に魅力を感じ、それも悪くないなと思った。
 担任に言われて一応、父母にも相談したが反対するわけはない。
 「人間は手に職をつけにゃいけん」が口癖の母は、もちろんだ。
 敗戦後の満州で、手に職を持たない日本人の男の無能ぶりを、まざまざと見てきているから、「手に職」は母の不動の信念となっていた。
 「これからの日本もアメリカのように、学歴よりも実力の社会になるけえのう」
 なにごとにも一言理屈をつけたがる父の言い分には、少々ご都合主義を感じた。
 もし、学制改革で新制中学校が通学圏内の北方村にできていなかったなら、わたしは旧制中学校をわずか4カ月の中退で終わっていたであろう。
 学校では三菱のほかに広島の逓信講習所(後の郵政省の機関)の受験手続きもしてくれた。
 「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ」(坂口安吾『不良少年とキリスト』より)(写真、坂口安吾、初恋は『カストリの時代』ピエ・ブックス)


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