第7部 村の新制中学校(4)

2007年08月05日 14:46

 級友たちと、もう1人の転校生

 昼休みの教壇は、男子生徒の演芸舞台と化すことがあった。
 小太りで喉が自慢の生徒がいた。
 その藤田は弁当を終えると教壇に上がり、おもむろに発生練習をしたあと、皆に向かってポーズをとり、流行歌を歌い始めるのだった。
 曲名も歌詞もほとんど思い出せないが岡晴夫の『啼くな小鳩よ』や『東京の花売り娘』、藤山一郎の『夢淡き東京』などだったか。
 時のはやり歌は、彼がラジオで覚え、ここで皆の耳に伝えられた。
 とは言っても、そのころ大流行していた笠置シヅ子の『東京ブギウギ』とか、子ども向けラジオ番組『鐘の鳴る丘』の主題歌とかは、彼のレパートリー外だった。
 彼に加えて、もう1人壇上をにぎわす陽気な生徒がいた。
 こちらの奥野は、青年団の村芝居で見覚えた寸劇を1人で演じたり、映画館の売り子の声色と格好を真似たりとか、多彩に壇上をにぎわしていた。
 寸劇は、通りがかりの女性に付き合うきっかけをつくろうともくろむ若い男のコメディー。
 男はわざと自分のハンカチを落とし、それを自分で拾い上げ、「もしも、このハンカチは……」と、彼女に追いすがりきっかけをつくろうという寸法だ。
 結果は不首尾に終わる筋書きだったと思うが、女性を追っていくときの男の滑稽な仕草がひとつの見せ場だった。
男は足がももにつくほど大きく後に跳ね上げ、ハンカチを持った両手を左右に揺らしながら女性を追っていく、その大げさな身振りで観客の笑いをとるのだ。
 このころ各地の村で青年団が演ずる芝居の定番が、この寸劇や菊池寛の『父帰る』だった。
  クラスには、わたしより前に転校してきた男子生徒がいた。
 溝口といい6年生の時に原爆で広島の家を失い、この村に母と2人で住むようになったということだ。
 村に彼の母の知り合いがいて、その農家の納屋のようなところを間借りしていたようだ。
 いつだったか、その溝口と廊下で2人きりになったことがあった。
 「こうやって外から見ると、わしが“ピカドン”におうたように見えまいが、わしの背中にや大きな火傷の跡が残っちょるんよ」
 転校生でよそ者同士の親近感からか、自分が被爆者であることを打ち明けた。
 クラスの中には、彼のあごのあたりに薄っすらと火傷の跡があることに気付いているものもいたが、いちいちせん索したりしなかった。
 級友のなかにも肉親や親族を原爆で亡くしているものもおり、原爆の話はタブーなのか話題にすることはなかった。
 それに日ごろの彼の活発な行動を見ていると、被爆の後遺症があるように思えなかった。
 近くの席の友だちとふざけあい、ときには相手を怒らせ、すばしっこく教室の中を逃げ回ったりしていたから。
 「あんたに、わしの背中の火傷、見しちゃろか」
 他人に原爆の火傷のあとを見せようとする彼の真意がつかめず、ともかく遠慮しておいた。
 口では表現できない原爆の惨状を、自分の背中に語らせたかったのだろうか。
 そうだとしても、後に被爆直後の地獄図絵を写真で見ると、わたしの乏しい想像力では、とても頭の中に描けるものではなかたった。
 あるとき、彼の母がよその畑のキュウリやナスを盗んだという噂が、クラスの間に伝わったこともある。
 おそらく、母親が近所の農家を手伝い、それで糊口をしのいでいたのだろうが、生活の窮状は想像に難くない。事実だったかも知れない。
 だからと言って、溝口を非難したり、白眼視する級友は1人もいなかった。
(『爆心地ヒロシマに入る』林重男著 岩波ジュニア新書)

 そんな噂を知ってか知らずか、彼はいつもと変わらず皆と屈託なく話の輪に加わっていた。
 中学2年を終了すると溝口母子は神戸の方へ引っ越したというが、その後の消息を知るものは誰もいない。
 なお、歌の藤田は近くの町村で開かれた「素人のど自慢大会」に、勇躍のりこんでいったが、翌日、応援団長兼付添人だった大田の報告によると、鐘はたったひとつだったとガッカリしていた。
 素人が歌唱力を競う「のど自慢大会」といえどもレベルはかなり高かったようだ。
 それからというもの藤田が教壇に立つことはなかった。
 また、陽気な奥野にはひとつ悩みごとがあった。
 オスの飼い犬にいたずら半分でマスをかいてやったら、それ以後、彼に身を擦り寄せてくるようになって困ったというものだ。
 とんでもないワルサを思いついたものである。
 このバカバカしい問題には、誰も解決策や名案が浮かばないらしく苦笑いているだけだった。
 これはワルサをした本人の「身から出たさび」、自業自得というものだ。


(『[写説]占領下の日本 敗戦で得たもの、失ったもの』ビジネス社、最上部の朝日新聞「社告」も)



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