第4部 新香坊難民収容所(4)

2006年10月09日 14:25

 訓練生の探し物

 「たしか、この辺に埋めたはずなんだがなあ…。ない! おかしいなあ?」
 「ここらに間違いないのか?」
 「ちゃんと油紙に包んで埋めておいたんだ?」
 ぼくたちの住んでいる宿舎の裏庭で、義勇隊の訓練生2人がスコップであちこち庭を掘り返しながら、こんな会話を交わしていた。
 作業を終えたリヤカー部隊は、暇つぶしにそこらをぶらぶらしているところだった。
 正副班長とぼくらは、宿舎の壁を背に2人の行動をぼんやり眺めながら、なんとはなしに立ち聞きしていた。
 ところで、昭和20年春には在満2万1,536人の(開拓)義勇隊員の半数以上が南満重工業地帯の労働力充足のため移動させられている。
 ソ連参戦時に各地の訓練所に残留していたのは主に老幹部と病弱な訓練生で、新香坊は250。この訓練生たちは敗戦と同時に、ソ連軍に強制連行されることになる。
 先ほどの訓練生は連行される前に時計を油紙に包み、この庭のどこかに埋めたらしい。
 しかし、ソ連軍の命令があまりにも急であわてていたことや、雨が土砂降りの夜だったこともあり目印が分からなくなったのだ。
 「○○はかわいそうだったなあ……土に埋めるときはまだ息をしていたから」
 彼らの話では、行軍に耐えられない重病の訓練生を、医者か指導員かが注射で命を絶とうとした。
 だが、息を完全に引き取るまで待てないせっぱ詰まった状況で、そのまま重病の同僚を土に埋めたということだ。
 夕暮れ近くなったが、2人は時計を探し出せなかった。
 「今日はいったんあきらめ、明日もう一度」と話し合いながら去って行った。


(『写真集 ああ北満』北小路 健編 図書刊行会発行)


 つかめない全体像
 ハルピンで越冬した新香坊の義勇隊員は、1945年9月中旬に訓練所の隊舎を難民収容のため明け渡したため、宿舎・寝具の不足で冬期の犠牲者は少なくなかったという。
 ぼくたちが住んでいた宿舎は、庭を掘り起こしていたあの2人の訓練生たちが起居していた隊舎に違いない。
 ソ連軍に連行された訓練生たちが解放され、訓練所に戻ってみると難民収容所になっていたわけだが、訓練生たちはどこに居住していたのかなど収容所の全体像はまったくつかめない。
 自分の居住範囲、行動範囲で見聞したことが、その人にとって唯一の真実である。
 この(新香坊)収容所に国民学校の学齢期にある児童が5、6千人いるといわれた。このまま放っておくわけにもいかず、塾を開くことになり、教員が集められた。男女合わせて20人ほどいた。
 空いている棟を教室に当て、午前、午後の2部授業とすることにしたが、困ったことにソ連軍の許可がいるという。所長から願いが出され、教科書はガリ版刷りにして提出、検閲を受けたもの以外は一切使用してはならない、という達しだった。児童は400人ほど集った。
 11月に入って運動会をやろう、と練習が始まった。父兄も参加することになり活気がみなぎった。
 ソ連軍にも招待状が出された。当日は寒さは厳しいが青天に恵まれ、リレー、遊戯とプログラムが進んで、ソ連将校も拍手を送っていた。(『満洲開拓団死の逃避行 証言』合田一道著 富士書苑発行)
 同じ収容所にいても、まったく知らないことばかりだ。ぼくのすぐ下の弟も1年生だったが塾に通ってないし、運動会が行われたことも。


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