第2章 逃避行そして難民生活へ(5)

2006年04月24日 13:38

  乞食のようなソ連兵
 列車はハルピンの一つ手前の駅、賓江ヒンコウでソ連軍に追いつかれた。
 初めてめて見るソ連兵は、腰ひもに空き缶をぶら下げ、黒光りするルパシカを着て、ぼろ布を巻きつけたような靴をはいていた。
 ある意味では、日本兵に比べ戦闘しやすいよう軽装備にしているともいえる。中には見た目で16、7歳の少年兵もいた。
 ルパシカの黒光りは手鼻をかんだ後、汚れた指を服になすりつけたり、袖で鼻を拭ったりするからだ。
われわれの列車に乗っていた日本兵は、一度も戦闘をしていないので装備や軍装は新品そのものだった。
  8月15日現在、関東軍主力は無傷(『関東軍と極東ソ連軍』より)
 ソ連の対日参戦から日本の終戦決定の7日間、関東軍の部隊でソ連軍と交戦したのは、②東正面では虎頭コトウ国境守備隊、東寧トウネイ支隊、第112、第124、第126、第128、第135の5個師団。うち、第124、第126、第135の3個師団は大きな損害を被った。(①西正面、③東北正面、④松花江下流方面は略す)
 ところで関東軍の兵力は、24個師団、9個混成旅団を基幹としていたから、すでにソ連軍と交戦した部隊はその一部にすぎなかった。
 言い換えると、8月15日現在、関東軍の主力はいまだソ連軍とは交戦しておらず、したがって無傷のままで残っていたのである。(『関東軍と極東ソ連軍』元参謀本部ロシア課長 林三郎著、芙蓉書房)
 084c7a2de4d67179a1c8233cdb698e8c[1] 腰の帯革たいかくや軍靴も比較にならないほど立派だった。
 乞食同然の姿のソ連兵たちは、日本兵を捕らえては皮製の帯革を無理やりはずさせ、自分のみすぼらしい帯革と取り替えていった。
 また、日本兵から強奪した幾つもの腕時計を太い腕に巻きつけているものなど、「チャスイ(時計)ダワイ(よこせ)!」を連発していた。
 どこまでが真実か知らないが、そのころのソ連では腕時計1つ売れば一生食っていけるほどの財産だと聞いた。
 彼らは一生を10回以上も暮らせるほどの腕時計を毛むくじゃらな両腕に巻きつけながら、それでもなお次の獲物を狙って獣のような目をギラつかせていた。(右のイラストは帯革『図解 日本陸軍歩兵』並木書房)
 信じられないような話だが、戦勝国のロシア人の女が敗戦国の捕虜相手に肉体を売ったりしたという。
 ソ連に抑留された日本人捕虜の手持ちの軍足や軍手、石鹸、マッチなどの物資と引き換えにである。
 戦後、東寧近くの石門子の元砲兵部隊にいた新海軍曹から聞いた話だ。
  元軍曹は真面目な性格で、いいかげんな話をするような人物ではない。
 それほどソ連の庶民は生活に困窮していたようだ。
 自動小銃 第一線に送り込まれたソ連兵は刑務所上がりの無法者で構成されていたそうだが、それにしてもソ連という国の文明の低さには驚かされた。
 こんな民度の低い国になぜ日本が負けたのか、ちょっと理解できなかった。
ぼくは、ソ連兵が肩からぶら下げている71連発の自動小銃(その形状から「マンドリン」と呼んだ)に対し、一発ずつ発射する日本軍の三八式歩兵銃との差にあったのではないか、と幼稚な考えをめぐらしていた。
 実際に目にする機会はなかったがソ連軍は砲兵、特にカチューシャと呼ばれるロケット砲などで圧倒的な優勢を占め、スターリン型戦車など彼我の武器・兵器には格段の差があった。
小銃
[上のイラストは、ソ連軍の自動小銃『世界銃砲史』(図書刊行会)、日本軍の99式小銃と38式歩兵銃『図解 日本陸軍歩兵』(並木書房)]


最新記事