第2章 逃避行そして難民生活(1)

2005年10月12日 14:28

  遅々と進まぬ避難列車
 避難列車内で、夕食は食パンが支給された。
 女子軍属たちは食パンの白く軟らかい綿の部分だけつまみ出して食べると、外側の耳の部分は、「こんなところ、まずくて食べられないわ」
 いかにも上品ぶった態度で、列車の外に投げ捨てていた。
 寮で慢性的な空腹に悩まされていたぼくは、ぜいたくな彼女たちのしぐさを目にすると無性に腹が立った。
 ぼくが食パンを口にするのは、円明国民学校の4年生以来ではなかったろうか。
 昭和17年ごろまでは、月に1回か半年に1回だったか学校で昼食用に食パンの配給があった。値段は幾らだったか記憶にないが、事前に申し込む必要があった。
 注文した児童は、その日の昼食時間になると先生の教壇の前に並び、1人1きん(350~400㌘)ずつ受け取ると席に戻った。
 パンは家から紙に包んで持ってきた砂糖に、千切っては付けしながら食べた。
 飲み物は当番がヤカンで弁当箱のフタに注いでくれる白湯さゆのみである。
 それでも、ぼくらはその日の来るのが待ち遠しく、心はウキウキさせていた。
 そんな喜びを与えてくれた食パンを、彼女らは粗末に扱っているのだ。
 恥ずかしながら、ぼくは彼女らの目にとまらないようにパンの耳まで余さず食べていた。
 列車は途中でよく停車した。哈爾浜ハルピン―牡丹江間は355㌔。2年前、円明校5年生春のハルピン修学旅行では、牡丹江駅を朝発って夕方には着いた。
 避難列車は、まだ牡丹江とハルピンのほぼ中間にあたる一面坡イーメンパにも達していなかった。
 途中の駅でもない所に停車したまま一夜が過ぎた。

イーメンパ

  ウラジオ占領が一転、無条件降伏に
 翌日になると午前中に、
 「日本軍の落下傘部隊がウラジオストックを占領しました!」朗報が後方の列車から口づてに流れてきた。
 にぎやかな女子軍属たちが、いっせいに歓声をあげた。やはり日本軍は勝っているのだ。
 ぼくは「思っていた通りだ。避難するなんて馬鹿げたことだった」と強く思った。
 『闘わざる覆面将軍』(毎日新聞社、北崎学著)によると、3日ほど前に〝どこからともなくあらわれた男が、「日本海軍はウラジオを占領しました。ウオロシーロフに落下傘部隊が降りました」といった〟とある。
 〝ウラジオ占領〟の情報は、いつどこから伝わってきたのか知らないが、ぼくたちには初耳であった。
 一面ぱ駅 このデマ情報にぬか喜びしていると、午後には一転して、
 「日本は無条件降伏した」、信じ難い情報が列車内に流れてきた。
 女子軍属たちは、
 「さっきのウラジオストック占領は嘘でいいから、日本の降伏も嘘であって欲しい!」
 ニュースの逆転に願いを込めながら、くやしがった。
 ぼくもこの時ばかりは彼女たちと同感で、虚報であることを心の中で祈った。
 「日本人は最後の一人になっても戦うのだ!」
 「日本には、ドイツのような無条件降伏は絶対あり得ない!」
 「神国日本は蒙古襲来の時のように、いざとなれば神風が救ってくれる!」
 日米開戦以来、学校で言い聞かされていたぼくは、降伏の報を聞いてもまだ半信半疑でいた。しかも「無条件」がつくのだ。
 国民学校3年生だった昭和16(1941)年12月8日の朝のことを思い出す。
 「本8日未明、西太平洋方面においてわが軍は米英と戦闘状態に入れり……」
 勇壮な軍艦マーチ入りの大本営発表がラジオで何回も放送された。 一面ぱ校舎
 このラジオ放送を聞いた瞬間、「日本は負ける」、そんな予感がぼくの脳裏をかすめた。
 兄から世界地図で、「日本とこの国が戦争になったのだ」と教えられ、アメリカと日本の国土の大きさを見比べ、単純に直感が走っただけのことだろう。
 ともかく、「日本が負ける」と思った確かな記憶がある。
 その日登校すると、先生は黒板に地図を掲げ、
 「日本はアメリカに向かって弓を引いた形をしている。だから絶対に勝つ」
 「アメリカにはヤンキー魂というものがあるが、むこうは利己主義の国で日本の大和魂とは違う。だから日本がアメリカに負けるわけがない」など、と力説した。
 その後の華々しい戦果によって、ぼくの頭の中は「必勝」の信念に洗脳されていった。
 列車は一面坡のホームに止まった。駅に着いてしばらくすると、いつどこから来たのか中国人の苦力のように薄汚れた顔をした15、6歳の少年2人が、客車の窓の下にしゃがみ込んで握り飯をむさぼっていた。
 頭に被った戦闘帽が、かろうじて日本人であることを証明していた。握り飯は客車に乗っていた将校夫人たちの誰かが与えたらしい。
 彼らは一面坡の満蒙開拓青少年義勇軍の隊員だった。
(写真右上は一面坡駅舎。左上は一面坡国民学校、『写真集 ああ北満 北小路健編』図書刊行発行

義勇隊
(『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)

 「日米開戦になれば日本は必負する」―太平洋戦争に突入する3カ月余り前の昭和16年8月下旬、総力戦研究所の研究生で組織された模擬内閣の若手エリート閣僚たちが、日米戦のシミュレーションを行った結果、近衛文麿首相(当時)ら本物の大臣たちに戦争は回避すべしとの〝閣議〟決定を報告。東条英機首相がこの必負説をよく知りながら開戦に臨んだ。(『昭和16年夏の敗戦』猪瀬直樹著)
 蛇足ながら、日米開戦朝のラジオ放送で、ぼくが予感した「日本は負ける」は当たっていた。


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