第1章 満州国崩壊の序曲(14)

2005年07月01日 11:40

 開戦3日目の牡丹江

 毎日新聞の北沢学氏は、開戦3日目(8月11日)の牡丹江の様子を『闘わざる覆面軍』の中で次のように記している。
 開戦第3日目、空襲警報の予告なしにソ連機が牡丹江を急襲した。前線との通信が途絶したので警報の予告ができないのだ。
 防空機器も応戦する飛行機もなかったので、ソ連機は悠々手ばなしで駅ちかくの住宅街を爆撃してあざ笑うようにひき揚げて行った。
 一般邦人はようやく浮足たって来た。
 興業銀行 市長はこれ以上市民を慰留することは不可能と知った。
 彼は独断で、邦人は婦女子にかぎり隣組単位で避難するよう勧告した。
 その夜省公署はごった返していた。
 開戦以来、牡丹江省公署に陣取って指揮していた五十子いらこ省長は沈痛なおももちで、
 「軍にだまされた。いまとなってはもう遅い。だが、関東軍のやつらはこんな間抜け共とはいまのいままで知らなかった」
 彼はいましがた軍の代表と激論して来たところだった。
 深更の2時頃、私は省公署を辞した。
 燈火管制下の市中はうるしを流したようにまっくらで猫の子一匹通っていなかった。
省公署の隣の女学校寄りから、
 「停まれ!」
 と誰何すいか する者がいる。あきらかに女の声だ。
 「日本人だ。君は誰だ?」
 物かげから白いものがすーっとちかづいて来た。
 よく見ると女学生らしかった。
 「今ごろ何をしているの?」
 「防衛についているのです」
 瞬間、私の胸にぐっとつきあげるものを感じた。
 「バカな、防衛もヘチマもあるものか、日本は負けているんだよ。早く家に帰るのだッ」
 「でも私寄宿舎にいるんです。家は東安トウアンですの」
 と細々にいうと、彼女は泣き出した。
 「なんでもいいから、あす早くみなで南にさがるんですよ」
 軍は自分らではこっそり退却していながら官民には日頃の防衛案通り、その部署につかせた責任を負おうとしない。
 私は支局に帰るなり、電話で女学校の責任者を呼び出した。
 相手はあきらかに当惑しているようすだった。
 「実は困っているんです。何しろ東満に一つの女学校なので、奥地の子弟もたくさん預かっているわけです。避難してくる近親のかたを待って引き渡すか(略)、ハルピンで待つか、新京で待つか、奉天か、という問題もあるんです。それにいちばん心配なのは4日ばかり前に奥地の開拓団に除草の勤労奉仕に出かけている組があるんですよ。その連中はどうなったか(略)。どうしたもんでしょう」
 私も急には返事が出来なかったが、
 「ともかくこの際は南にさがったがけんめいでしょう」と念をおした。(以上、『闘わざる覆面軍』より)

 恨みぞ深し〝汁粉・ぜんざい〟

 当時、牡丹江高等女学校の教諭であった清水豊吉氏は『俘虜追想記』で、
 私は8月11日、牡丹江高等女学校の宿直勤務中、最終巡回を終えて就寝しようとする11時半、
 「牡丹江守備隊に入隊せよ」
 との電話命令を受けた。牡丹江兵事部からの通報であった。
 私は受命のときから、寄宿舎がいたたまれないほど気になっていた。
 高女 東満国境情勢緊迫のため、帰省できない30名に近い生徒が残寮し、それに准看護婦の資格取得のため、陸軍病院に通うかなりの生徒が加わっていたからである。
 牡丹江高女は、当時、東満州ただ一校の高等女学校で、残寮する寮生は、東安トウアン東寧トウネイ綏芬河スイフンガ)など広範囲な国境地帯に駐留する軍人、軍属の子女がほとんどであった。
 太平路―駅前―虹雲橋―遠山大路をひた走り、(女学校の寮舎まで)4㌔余りをいっきに駈けつけた。
 (中略)どの室もことごとく押し入れは開け放たれ、寝具、衣類などはなく、雑然の度が過ぎている。
 満州人の略奪が閃いたとき、2列に向かいあう8個の机上の書架に、ひっそりと残される主を失った教科書とノートに疼きが湧いた。
 事務室の金庫ダイヤルは飛び、開け放たれている。
 つづく職員室は、書類箱、机の引き出しが散乱して足の踏みようさえない。
 校舎の2階を見回りさせた部下から、料理実習室に、
 「汁粉の準備がされたままの鍋が、調理台に放置されています」、との報告があった。
 きっと、寮生が母校に別れを告げる最後の会食を共にしようと、それを果たすゆとりもなく、駅に走らねばならなかったからであろうか。(以上、『俘虜追想記』より。牡高女校舎の写真も)

 牡高女の〝汁粉〟の件だが、星輝寮でも同様なことがあったらしい。
 わが校の学徒隊は、牡丹江死守のため星輝寮に籠城ろうじょうし、ソ連軍と最期まで一戦を図る任を帯びていた。
 ところが8月12日(日曜日)15時30分、省次長より牡丹江地区強制引き揚げの命令が下される。
 学校長以下、教員、残寮生徒たちは非常呼集がかかり、急きょ新京地区への転進準備を整え、16時に学校を出発した。
 その間のことである。
 軍派遣教官のN軍曹(国語担当、東京帝大卒)らは、寮で〝ぜんざい〟作りに取りかかっていた。そこへ思いもよらぬ転進命令だ。
 先生たちは、作りかけのぜんざいに名残を惜しみながら出発せざるをえなかった。
 同窓会でのN先生の思い出話だが、ソ連抑留中は飢餓状態のなかで、あのとき食べそこなった〝ぜんざい〟のことが思い出され、残念でならなかったという。


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