第1章 満州国崩壊の序曲(8)

2005年06月04日 15:10

  嵐の前の牡丹江駅

<過クル六月以降、開拓地ニアリテ増産ニ挺身シ来レル、二、三年学徒全員無事責務ヲ完了シ、前夜會(八日夜)、帰牡(牡丹江)シ得タルハ蓋シ神意ニヨルモノト言ウベシ>

 8月10日、学校を終え帰途につくと、帰路が同じ浜綏(ヒンスイ)線の斉藤ら3人と一緒になった。
 同級生の斉藤に坂本と勤労動員帰りの2年生の3人は、牡丹江から一駅先の拉古(ラコ)の官舎から通っていた。
 駅に着くと、どうしたことか駅舎の中は閑散としていた。
 改札口に駅員も立っていなければ、周囲に乗降客の姿も全く見当たらない。
 朝の登校時とはうって変った待合室のようすに、まるでキツネにつままれたような心地がした。
 切符売り場の窓口で尋ねると、
 「ハルピン方面行きの列車は不通で、次の列車はいつ到着するか、いまのところ全く分からない」
 と、頼りない返事。
 駅員の言を確かめるためではないが、改札口からプラットホームを望んでみた。
 牡丹江駅は東満州の交通の要衝(ようしょう)である。
 綏芬河(スイフンガ)虎林(コリン)東寧(トウネイ)といった東満国境の街々は、鉄道路線で牡丹江駅と結節している。 銀座  その3方面の路線が入り組む広々とした構内のどこを見回しても、列車の姿形もなければ人影を見つけることもできない。
 牡丹江駅一帯が静寂に包まれ、時間が静止しているかのような錯覚にとらわれた。
 いつ来るともわからない列車を、待合室で待っていても仕方ない。
 だれ言うことなく、駅前付近や牡丹江銀座などをうろついて時間をつぶすことに意見は一致した。
 市内の様子はいつもと変わらず平静を保っているようにみえたが、心なしか人影は少なく感じられた。
 この日、学校では対ソ戦に備えて軍事教官による対戦車肉迫攻撃訓練があったが、前線の戦況については何ひとつ聞かされていない。
 「無敵関東軍の精鋭百万」を信じて疑わないぼくたちは、いまごろ前線ではソ連軍を撃退しているに違いないと想像していた。
 このような現状認識の甘さは、ぼくたちだけではなかったようだ。

 当時、牡丹江高等女学校の教諭であった清水豊吉氏の手記『俘虜追想記』(北見文化連盟発行)から、その日の模様を一部引用させてもらう。
 市内も官舎街もあくまで平静で、危機切迫は全く感じられない。
 皇軍を信じきっている私(清水氏)は、敗戦に至ろうなど、もちろん夢想さえしていなかった。
 私は8月10日、銀座通りの北満書店に出向いた。午後2時頃だったろうか。
 かねて顔見知りの店員が、
 「先生、今朝早く、綏芬河スイフンガ)方面の開拓団200名ほどが駅に降り、いま昭慶しょうけい)小学校に避難しているそうです」
 (略)太平路を進み、駅前に至って、異様にざわめく広場の光景に目を射竦いすくめ)られた。
 降車直後らしい300名に余るであろう開拓団の避難民が広場をほぼ埋めていたからである。憲兵リュックサックを荷ない、雑嚢(ざつのう)(肩から掛ける布製のかばん)をつり、持てる限りであろう大ぶりな風呂敷包みを手に下げている。
  女性は、モンペ姿に乳児を背負い、両手に幼児をつれるものが多い。
 壮年の男子は全く見当たらない。
 この一団を、数名の憲兵と20名ほどの軍装する兵士が取り囲んでいる。
 通りがかりの人が、泣き止まぬ幼児を背から降ろし、乳房を含ませようとする母親に歩み寄りそっと声をかけた。すると
 「誰に許可を受けて話をした」
 横合いから長い下士官刀を持った憲兵軍曹に激しく突き飛ばされた。
  (略)最初に牡丹江駅に到着した避難列車は東寧方面からで、軍家族、満鉄家族だったと言う。
 牡丹江市民が避難民に接触すると、ソ連軍の進撃の状況を確認し、動揺を来たしては、との軍部の判断からだろう。

(憲兵軍曹のイラストは『図解 日本陸軍歩兵』中西立太[画]並木書房)

 ぼくたちが学校を終え牡丹江駅に着いたのは3時半か4時ごろのはずだ。
だが、その時間帯には清水氏が目撃した避難民の集団だけではなく、その痕跡すらうかがえなかった。
 ぼくたちは、ちょうど電車が通り過ぎた後の踏切を渡っていたようなもの。
わずかの時間のずれで、大きな異変を見逃していたのである。

開拓団

(『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)

 

 



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