第9部 技能者養成所(1)

2008年01月18日 17:32

 鶏との奇縁、受験日の朝、雌鳥が初めて卵を産む

 例年50人だった養成工の募集人員が、1次試験の直前になって30人に減らされた。
 この年(昭和24年)の2月、米国のドッジ公使が来日し、日本が直面しているインフレを徹底的に抑制するため「ドッジ・ライン」というデフレ政策を強行。これが日本の各企業に一層の緊縮を強いることになる。
 そのシワ寄せが養成工の採用減という末端の事象にまで波及したようだ。
 1次、2次とも試験科目は数学、理科、国語、英語、社会の5教科。
 先生たちは養成所の過去問に関する情報がつかめないから、受験の対策の立てようがない。
 試験の前日は風邪など引かないよう早く床につくようにと、アドバイスするのがせいぜいのようだった。
 試験当日の朝、わが家で不可思議な現象が起きた。
 イタチの被害にあわず、1羽だけ残っていた雌鶏が突然、卵を産んだ。
 これまで一度も卵を産んだこともない、貧弱な体の雌鳥がである。
 母がなにげなく鶏小屋をのぞいたら、小ぶりの白い卵が転がっていたそうだ。
 わたしの干支は酉、奇縁だ。
 “吉兆”だと誰しも思いたくなる。
 母は興奮した声で、「こりゃ縁起がいい。入社試験は絶対に受かるで!」
 わたしは、母が殻に穴をあけた卵の中身をすすり、ワラぞうり姿で家を出た。
 受験場は三原市内にある養成所の校舎だった。
 大田とわたし、それに前年卒業していた垣内の3人は、試験が終わると一緒に帰路に着いた。 
 本郷駅で下車すると、神戸商船大学出の英語の先生が、駅頭で自転車を横に待ち受けていた。
 帰りの道々、先生は自転車を引きながら、回りのわたしたちに試験の内容と解答を熱心に尋ねた。
 わたしは、理科で出題された地球と月の関係を、引力と遠心力を使って説明したと話すと、「それでいい」と、うなずかれた。
 以前、少年向けの科学雑誌で読んでいたのがヒントだった。
 数学では、図形の面積の計算だったと思う。垣内とわたしでとでは、問題の解き方は違っていたが答えは合っていた。
 ただ、彼の着眼や手法がわたしより優れていた。
 2次試験の時は彼の解き方がヒントに使え、ありがたかった。
 英訳は分からない単語が数カ所あったが、前後の文脈から想像を巡らし、適当にやっつけた。
 こうした勘働きはよい方だから、案外、的を射た訳になっていたかもしれない。
 1次試験は3人とも合格した。
 2次試験の時も、英語の先生は小さな雪がちらつく中、本郷駅で待っていてくれた。
 帰りの道々、わたしたちに尋ねることは前回と同じ。
 自転車で来ていた垣内は、先生と並んで歩きながら、わたしに「養成工に受かったら、両親に自転車を買(こ)うてもろうて、用倉から通勤するがいいわ」
 大人びた彼は、すでに合格したかのような口ぶりだった。
 家の近くの池までたどり着くと、父が待ちかねたように立っていた。
 結果を聞かれ、自信たっぷりに「絶対受かる」
 「そうか」父の顔がほころんだ。
 わたしの頭の中には、試験を受ける前から「不合格」の文字はなかった。
 その根拠はと言われると、実にたわいないことだった。
(蒸気機関車C62、D51『日本の蒸気機関車』ネコ・パブリッシング)


 おみくじの不思議な効力

 牡丹江で4年生の時だった。満州で唯一の滝がある鏡泊湖へ日帰りで遠足に行ったことがある。
 その時、どこかの土産物屋で、おもちゃのおみくじを買った。
 開いて見ると、「上級の学校の受験はすべて受かる」と書かれていた。
 以来、わたしは、なんの疑いもなく素直に、おみくじのご託宣を信じてきた。
 旧制中学の受験で、それが実証されたから、神がかり的にさえなっていた。
 賢い子どもは、何事にも「どうして?」、「なぜ?」と疑問を抱くというが、父や兄に「いつもボケーとしている」と言われているアホな子どもにも、それなりの利点はあるようだ。
 火事場の馬鹿力に似て、思いもかけないところで力を発揮するから侮れない。
 2次試験の合格発表は、卒業式の日と重なっていた。
 校庭の隅で数人の同級生と話をしているところへ、大田がやってきた。
 ご苦労なことに、彼は卒業式の始まる前に三原まで発表を見に行ってきたという。
 そうして、わたしに合格を報せてくれ、自分は不合格だったと告げた。
 「あんたは受かったんじゃけ、もっと嬉しい顔せんかい」
 せっかく見に行った当人が不合格なのだ。嬉しい顔などできるわけがない。
 不遜(ふそん)ながら「合格」を信じていたわたしである。
 彼から聞いても新たな感動など沸くこともない。
 内心では、彼の余計な言動が迷惑にさえ思えた。
 卒業式が終わり、職員室へ挨拶に行くと、先生たちの空気が沸き立っていた。
 近隣の中学校は全滅、養成工に1人も受かっていなかったという。
 ライバルの近隣6カ村の中学校に、電話をかけまくったようだ。
 わが校は、垣内とわたしの2人も受かったのだから、先生たちの意気があがるのも無理はない。
 6カ村対抗の野球や駅伝で芳しい成績を上げていなかったから、大いに溜飲を下げているようだった。
  ところで、入社して分かったことだが、6カ村の中でも沼田西中学校から養成工に1人受かっていた。
 彼は3年後、養成工をトップで卒業している。
 さらに付け加えると、入社試験の上位は旧制中学校からの受験者が占めていたようだ。
 広島の逓信講習所の受験日は、卒業式の翌日だった。
 大田は首尾よく合格したと聞いている。
 因縁話めくが、鶏と卵の件だが、2次試験が済むと不思議なことに、次の日からパタリと産むのをやめた。
 こんな話には、多分、マユにツバをつける人が多いだろうけれど。
(学制変遷のメモ『復刻版 昭和大雑誌 戦後編』流通出版)


第9部 技能者養成所(2)

2008年01月23日 14:31

 封建制の色濃い「身分制度的資格制度」に落胆

 4月1日の予定だった入所式が、14日に延期された。
 国家管理だった日本国有鉄道(国鉄)が、この年の6月から国鉄公社となり独立採算制に移行する段階で、機関車のオーバーホール(修理)などの外部発注を中止。
 国鉄の自社工場で行うようになったことで、三原車両の仕事量が減った、と聞いた覚えがある。
 憶測だが、それが入所日の延期につながったのではと思う。
  翌年の養成工は募集中止になった。
 晴れて入学してみると、成績が良ければ技師に昇進できるという技術員教習制度は、戦前までの話で、終戦とともに廃止となっていた。
 式辞では、君たちは養成工を卒業すると、わが社の中堅工員であると言われた。                                     
(昭和24年4月 三菱三原車輌技能者養成所入学記念写真)


 競争倍率が高かっただけに意気揚々と入所はしたものの、前途はあまり明るくないと知る。
  落胆するものも多かったが、とにかく就職でき、開墾から抜け出せる、その喜びの方がわたしには大きく、工員という資格について深く考えることはなかった。 
 職員と工員との間の身分の差、待遇の違いを現実に肌で感じるまでには、それからしばくの年月があった。
 この会社では、入社時の学歴により、大卒は正員、高卒は準員で「職員」となるが、技能者養成工の卒業後は普通工員に格付けされる、ことを知ったのは後のことである。
 身分制的資格制度の考え方は、当社創業以来一貫してとられてきたものであり、極めて長い歴史をもつものであった。(『三菱重工名古屋航空機製作所25年史』より) 
 旧従業員制度(左表)では、高卒で入社した女子は書記補(雇員)から書記になっていく。
 養成工出のわれわれは、彼女らよりも格付けは下なのだ。
 その後、新制度に移行するまでは……。
 昭和44年11月1日をもって新制度に移行した。新従業員制度は(中略)すべての常用従業員を「社員」とした。(『同上』より)

 得意の絶頂が旧来の陋習(ろうしゅう)で砕かれる

 三原市は小さな都市である。
 話題性に乏しい町だから、この年の養成工の噂はまたたく間に巷に広がった。
 「何せ、あんたらは30分の1じゃけえのう」
 当初の応募数から計算すれば30倍かもしれないが、受験前までに応募者がけずられ、実際は25倍だったと聞いている。
 前年受験の2年生の競争倍率は10倍だったそうだ。
 噂が誇張され、さらに尾ひれがついて流布していくのは、いずこも同じようだ。
 「朝日新聞社に受かった子が、養成工を受けて滑ったんじゃけえ」
 新聞社と製造業では試験の内容が違うはずだが、外野の人たちは単純な判断で比較する。
 「こんどの養成工はみんな、中学校で級長か副級長していたげな」
 この地方では「げな、げな、ばなしはウソじゃげな」というが、まさにその通りだ。
 それでも、こんな噂を耳にして気分の悪かろうはずはない。
 いつのまに流行(はや)ったのか、われわれは白い鼻緒の高下駄を履き、秀才気取りで三原の街を闊歩(かっぽ)していた。
 そんな得意絶頂の日々は、ほんの束の間だった。
 突然、冷水を浴びせられる出来事が待ち構えていた。
 この養成所には“旧来の陋習(ろうしゅう)”が根強く残っていた。
 旧制中学校時代に逆戻りしたような、3年生の私的リンチである。
 この連中は、市内の高校の不良や町のチンピラどもと徒党を組んでいるから、さらに程度が悪い。
 学校で休憩時間に便所に行くと3年生が2、3人、必ず入口で待ち構えていた。
 そこで指名された1年生は、子羊のように講堂へ連れて行かれ、使い走りを命じた3年生たちの前に直立不動で立たされる。
 「われ(お前)は、態度がでかいのう」、「おどれ(お前)、わしに面を切ったじゃろうが」、「金を貸せ」など、なんのかんのと難癖をつけて制裁を加えた。
 便所に行くのを我慢して教室にいると、帽子をあみだにかぶった例のチビの3年生が、虎の威を借る狐のごとく、横柄な態度で入ってきて、ボスたち注文の1年生を連れ出して行った。
 わたしの場合は、ボスの1人が、わざわざ教室までお出ましになり、わたしの横の席に座って、さらしの白い腹巻からドスをちらつかせ「仲間に入れ」と脅した。
 こちらは、満州でソ連軍の少年兵に短剣を突きつけられた経験があるのだ。
 チンピラの小間使いなど真っ平だ。
 沈黙を通して、あきらめさせた。
 程度の差はあれ、1年生の中で、3年生から殴られたことのないものは1人もいなかった。
 戦後、民主主義の時代になって4年にもなるというのに、悲しい陋習だった。

(昭和27年3月 三菱三原車輌技能者養成所卒業記念写真)

 なお、3年生は国民学校の高等科2年卒、2年生は新制中学校3年を出て養成工に入っている。
 もともと同級生であるからか、3年生が2年生に制裁を加える場面を目撃したことはない。
 また、われわれ1年生が、2年生に制裁を受けた話も聞かなかった。

第9部 技能者養成所(3)

2008年01月30日 20:44

 鉄道車両工学の記憶から

  養成工の専門科目に「機構学」、「機械工作概論」、「材料学」、「製図」などがあったが、興味をもてたのは「鉄道車輌工学」ぐらいだった。
 この講義の中で、いまもおぼろげに記憶に残っている事柄がいくつかある。
 最近の文献を参考に、遠い昔の記憶を補強あるいは補填(ほてん)しながら、ここでいくつか列挙してみたい。

 [狭軌(きょうき)とSLの限界、EL、DL化の推進] 鉄道車両工学の最初の講義で、「わが国の蒸気機関車(Steam Locomotive)は、レールの幅がせまい狭軌(きょうき)の鉄道では、すでに世界最高のレベルに達している」と教わった記憶がある。
 
 <注記1> 左右のレール間隔をトラックゲージ(軌間、略してゲージ)と呼ぶ。
 1435mmのゲージをスタンダードゲージ(標準軌)、これより広いゲージをブロードゲージ(広軌)、標準軌より狭いゲージをナローゲージ(狭軌)と呼ぶ。
 在来線のゲージは狭軌で1067mm、新幹線は標準軌の1435mmである。


 SLの速度性能は動輪の直径に左右されるが、その動輪の径はゲージにほぼ比例する。
 また、車両の大きさも車両限界やゲージの寸法などで制限される。
 
<注記2> 車両の断面は車両限界で定められ、トンネルや橋梁の大きさなどで、寸法上の制約がある。

 こうした線路条件の制約があるわが国では、SLのスピードアップや輸送力の向上はこれ以上望めない。
 今後はSLに代わって、動輪の軸数を増やすことで出力や牽引力を強化できる電気機関車(Electric Locomotive)や、ディーゼル機関車(Diesel Locomotive)の導入が進められる、ということだった。

  [わが国史上最大の生産数を誇る“D51”] “デゴイチ”の愛称で親しまれる貨物用の蒸気機関車D51は、わが国でもっとも評価の高いSLである。
 専門家の多くは、わが国のSLで優れた形式を選ぶとしたら、総合的な条件からD51を挙げるという。
 <注記3> D51の後に誕生した形式のC57・58・59・D52と戦後のC61・62・E10などの設計の基本は、すべてD51と同一である。

 それを立証するのがD51形式の生産両数だ。
 1936年(昭和11年)から1945(昭和20)年の9年間に1115両が製造された。
国産の標準形SL機関車としてD51は、単一形式の機関車としては、わが国の史上最大の生産数を誇る。
 また、製造所が民間工場5社、国鉄工場8の計13カ所というのも記録的だという。
(右表参照『決定版 日本の蒸気機関車』宮澤孝一著、講談社より)
 

 なお、1948(昭和23)年に作られたC62型は、国内で最大、最強の蒸気機関車となったと評価されている。
[動輪の軸数はアルファベットで、貨車の大きさは“ムラサキ”の順] SLの形式名は動輪の軸の数を示す記号(アルファベット)と2桁の数字で表される。
 ただし、DLとELは2番目の英文字が軸数を表す。
 〔例〕C62は動輪の軸数が3、D51は軸数4を表す。DE50は5、EF75は6という具合である。
 
<注記4> 1番目の英文字Dはディーゼル機関車、2番目のEが動輪軸数。同じくEは電気機関車、Fが動輪軸数を表す。

 機関車の速度は動輪の大きさで決まる。大きければ大きいほど速度が出る。
 一般的に旅客用の機関車は速度を優先するから、動輪の直径を大きくする(C62は1,750mm)。 
 動輪を大型化すると動輪の数を減らさない限り、車体の長さに収まりきらなくなる。
 したがって、旅客列車用の「C形式」は3軸の大きな動輪でスピードは出せるが、力が出ない。
 一方、貨物用の「D形式」は牽引力が優先であるから動輪の径を小さくして(D51は1,400mm)動輪を増やす。動輪の軸数を増やすことで出力や牽引力を強化できる。
 
 記号といえば、貨車の大きさは「ムラサキ」の順だから覚えやすい。
 例えば、貨車の横腹に白い字で「トキ」と書かれていたら、“ト”は無蓋(むがい)車で積載量は“キ”だから25?以上。「ワム」は有蓋車で積載量が14~16?
 [動輪の空転を防止する「砂装まき装置」] 奇妙なことを覚えている。砂箱の砂まき装置のことである。
 雨降りなどに、動輪の空転や制動時の滑走を防止するため砂箱から線路上に砂をまく。このような原始的な方法が採用されていることに驚きを感じたからだろう。
 砂まき装置は、砂タンクの砂を必要に応じて砂管を通して動輪の前側のレールに砂をまき、動輪の粘着性を増すようになっている。
 
 

では、現在の砂箱はどうなっているのか。
 1両で車両編成全体を牽引力しなければならぬSLに比べ、ELは動力を分散しているので砂まきは必要としない。
  しかし、時速300??を超える速度では雨降りの時などに、粘着係数を確保する必要があるそうだ。
 そのため現代版砂まきでは、直径0.3?のアルミナの粒を毎分30?程度、高速ノズルで車輪・レール間の接触直前のレール上に噴射するようになっているとか。

【参考・引用文献】
『日本の鉄道史セミナー』久保田博著(グランプリ出版)
『鉄道車両メカニズム図鑑』伊原一夫著(グランプリ出版)
『決定版 日本の蒸気機関車』宮澤孝一著(講談社)
『【超図説】鉄道車両を知りつくす』川辺謙一著(学習研究社)
『日本鉄道史―技術と人間―』原田勝正著(刀水書房)
『鉄のほそ道』石本祐吉著(アグネス技術センター)
『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉著(小学館)
『鉄道メカ博士』川辺芭蕉著(自由国民社)

第9部 技能者養成所(4)

2008年02月06日 14:27

 続・鉄道車両工学の記憶から

 [ゲージ選定に関する諸説] レール幅の軌間(ゲージ)は、レールを敷設した後から変更することは非常に難しい。鉄道創業時のゲージの選定は、極めて重要な問題だった。
  わが国の鉄道が創業時に1067?(3㌳6㌅)の狭軌を選定したのは大変な失敗だった、とする見方がある。
 わたしたちの講師も、この失敗説をとっていた。
 狭軌に比べてゲージ幅の広い広軌だと、車両重心の位置が下げられるため安定がよくなり、高速で強力なSLと大型車両が開発できるから、輸送力は格段に増強できるからだ。
 ところで、わが国の鉄道のゲージ選定の経緯には諸説ある。
 もっとも有力な説は、鉄道を建設するとき、当時の鉄道先進国イギリスから派遣された鉄道技師が、「日本は山が多くて地形が複雑なので、トンネルや橋をたくさんつくらねばならない」という理由で、建設費が安くすむ「狭軌」を採用することを提案した。
  当時の関係者はゲージの選定がいかに重要かという認識がなかく、大蔵大補大隈重信がこれを妥当な案と判断し、決められた。
 ほかにも雑説として、イギリスが日本を後進国と見下し、イギリスの植民地(南アフリカやニュージーランド)の多くで使われていた3㌳6㌅(1067?)の狭軌のゲージを押し付けた。
 狭軌にしたのは、植民地用の機関車を日本に売りつけるためで、わが国で最初に輸入された10両の蒸気機関車はすべてイギリス製である等々。
 とはいえ、狭軌ではトンネルや橋などの構造物を小さくでき、建設費が安くすむ。
 当時の後進国日本の実績や山地の多い地理的条件と、建設費が相当(約30%)軽減できる狭軌の採用が妥当であった、とする肯定的な意見も多い。

  [戦前の弾丸列車構想が新幹線の実現へ] 1937(昭和12)年の日中戦争の勃発後、大陸との交通が激増し、東京―下関間を9時間で結ぶ広軌の別線を建設して、弾丸のような高速度の列車を走らせる計画があった。
 線路ルートの選定が終わると、さっそく用地買収を進め、1941(昭和16)年から長い工期を要する長大トンネルから工事が開始される。
 だが、この年、太平洋戦争に突入し、やがて戦局の悪化のため1943(同18)年に工事を中止せざるを得なくなった。
 講師からこの話を聞いた当時は、10数年後にこれが東海道新幹線の実現につながるとは、とても想像できなかった。
 講師もそうではなかったかと思う。
 1964(同39)年に開業した東海道新幹線は、弾丸鉄道に比べてルートは名古屋―京都間(弾丸鉄道は鈴鹿山脈を抜けて直結)を除いてほぼ同じ。
この時の買収済み用地は、そのまま新幹線に転用されているという。

 [車輪と車軸が固定している列車が、なぜカーブを曲がれるのか?] この問題は、工場実習の休憩時間に、指導員がわれわれ実習生に投げかけたクイズである。
自動車ならばカーブを円滑に走るため、後輪の左右の回転数が自動的に変わることができる。
  ところが、鉄道車両は車軸と車輪は固定されている。
曲線では、レールは内側よりも外側の半径が大きいから、それだけ外側の距離が長くなる。
 車軸と一体化した両輪は同回転するわけだから、外側の車輪は内側の車輪についてゆけない。それなのに、列車はなぜカーブが曲がれるのか?
その仕組みは、走る列車の遠心力と、タイヤの踏面(とうめん)の勾配との関係にあった。
 列車はカーブを走るとき、遠心力により外側に振られる。
 すると、外側のレールを径の大きいタイヤの内側で、内側のレールを径の小さいタイヤの外側で回転する。
  これで列車はカーブを無理なく走ることができるわけだ。
 

直線ではいつもレールの中間に移り、どこでも安定した状態で走るように工夫されている。
 また、列車が曲線路を通過するとき、遠心力によって外側に倒れようとする力が作用する。これを防ぐために、あらかじめ曲線路の外側のレールを内側より高く敷設してある。
 これをカントというが、あまり高くすると曲線路上で列車速度が遅い場合や途中で停車したとき、逆に内側に倒れる力が働いて危険を伴うので、カントの最大値は規制されている(下図)。


  
 [タイヤの取替えと焼きばめ] 車輪の踏面(とうめん)を形成しているタイヤは、長く走行しているうちに磨耗する。
自動車などと同じで、鉄道車両も車輪から磨耗したタイヤだけをはずして取り替える。
 タイヤの交換では、タイヤの内径を輪心(リム)の外径よりも1000分の1だけ小さく削る。
 タイヤを熱して(約300℃)膨張させ、輪心に焼き嵌(ば)め(槌打ちして嵌め込む)し、冷却収縮によって圧着している。

【参考・引用文献】前回同。

第9部 技能者養成所(5)

2008年02月11日 17:59

 謹厳実直ぞろいのクラスで異彩を放つF

 専門科目は工場から技師が講師として出向してきたが、一般教養科目は校長以下、学校専従の教師たちだった。
 一般科目では入学して間もないころ、たびたび抜き打ちテストがおこなわれた。
 各科目の教師たちは、生徒の実力のほどを試したかったのだろう。
 なんの科目だったか忘れたが、入学してはじめてのテストの時間だった。
 問題用紙が配られて、さほど時間が経たないうちに、はやばやと答案用紙を提出する奴がいた。
 Fだった。彼は教壇の前を通り過ぎるとき、問題とにらめっこしているわたしたちを見渡し、「やっ!」と手を上げんばかりの態度で、悠然と教室を出て行った。
 すごく頭のよい奴がいるものだと、これには誰もが舌を巻いたようだ。
 そのFは同級生が集ると、いつも話の中心になる人物だった。
 ただ、彼の話はホラと本当が入り混じっているようで、額面どおりに受け取れないところがあった。
 例えば、漁師町に住んでいる彼が、近くの海で泳いでいると、フカがそばまで寄ってきた。
 その時、彼は少しもあわてず、6尺フンドシを長く垂れ流すと、フカはおとなしく去っていった、という具合だ。
 フカは自分の身長より大きいものは襲わないという説がある。
 それでフカに襲われずに済んだというわけだ。
 瀬戸内海にフカが現れるかどうか知らないが、こうしたホラ話を平然とするところが彼の真骨頂であった。
 後で分かったことだが、テストの件も種を明かせば答案は白紙だったという。
それも入学したばかりである。
 どちらかと言えば、謹厳実直で温厚な性格ぞろいのクラスの中では、異彩を放つというか異端児というか、ともかく豪胆さの目立つ男だった。
 Fは卓球が好きで、うまかった。
 卓球台は講堂に数台設置されている。
 昼休みの休憩時間は、そこが3年の不良どもの溜まり場にもなっていた。
 Fは卓球がしたくてうずうずしていたのだろうか、あるときラケットを手に卓球台の先輩たちに近づいていった。
 そこまではよいのだが、先輩たちが吸い捨てたモク(煙草)を床から拾い上げ、
「センパイ、ちょっと火ぃ貸してつかあさい(下さい)」
 悠揚せまらぬ態度に、3年生たちも度肝を抜かれ、あ然と火のついたタバコを差し出した。
 
しばらくして、われに返ると、いかにも生意気きわまりない新入生である。
 後で、3年生から制裁を受けたことは言うまでもない。
 だが、Fはそんなことでめげるようなヤワな奴ではない。
 Fの住む漁師町には、町のチンピラどもも恐れる気性の荒い若い衆が大勢いる。
 これは憶測だが、Fのことだ。
 知り合いの荒くれ者の漁師のことに触れ、逆に張ったりをかますぐらい造作のないことだ。
 いつからか、上級生に向かって、「センパイ! オッス!」、痛快にやっていた。
 担任の国語の教師は、卒業時の席次によって給料は3ランクに差をつけられるから、しっかり勉強しろと発破をかけるが、生徒の反応はもうひとつだった。
 「この世には2種類の人類がいる。銃を構える奴と穴を掘る奴だ」(『続・夕日のガンマン』)
 このせりふを借りると、わたしたちのクラスも2種類の生徒がいた。
 (卒業後は工員という身分なのだが)競争本能にかられて勉学に励む奴と、なるようになれと捨て鉢な奴だ。
 勉強嫌いで怠けモノのわたしは、もちろん後者に属した。
 ただ、Fだけは超然として、そんな瑣末(さまつ)なことにとらわれる様子はなかった。
 彼がいるかぎり席次がビリにはならないと、わたしたちを安心させてくれた。
 おそらく、われわれの救世主として、最後まで殿(しんがり)を努めてくれたと思う。


(『動輪』大野毅一、光村推古書院)



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