第6部 戦後の開拓地で(1)補足

2007年05月09日 13:35


「戦後の開拓地で」(1)で、20年ほど前に私の書いたエッセイのことにふれましたが、補足として当時の原稿をそのまま載せてみました。与えられた題は“好きな言葉”、本文は800字(400字詰め原稿用紙2枚)以内。講師の手直しも数カ所あります。


 好きな言葉

 「年年歳歳花相ひ似たり 歳歳年年人同じからず」
 私はこの対句が好きだ。
 教わったのは、学制改革で新制中学校に変わったばかりの時の校長である。
 40年も前になる。
 卒業間近であったせいか、年年歳歳、桜の季節になると、この詩が自然に浮かんでくる。
 その年年歳歳の1本が、近所の家の庭にあった。
 春、黒い板塀越しに咲いた満開の桜が、狭い路地の上を綿帽子のように覆う姿は、それは見事なものだった。
 その桜の木が3年ほど前、姿を消した。切り倒されたのである。
 伝え聞いた話では、近所のだれかが区役所に苦情を申し入れたらしい。
 路上に花びらが散ると汚いというのが理由だ。
 桜の木の持ち主は、泣く泣く役所の指示に従ったという話である。
 これに類した話は時たま耳にする。
 以前、ある女性の建築士が「花は汚い」と言う同僚がいて、がく然としたという話を聞いたことがある。
 花の命は短い。盛りを過ぎた姿は、哀れだし、みすぼらしい。
 花は「美しく、きれいだ」とばかりは限らない。
 それにしても、花びらが散る十日やそこらを辛抱できない住民といい、その苦情を無定見に聞き入れる役人といい、あるがままの自然を許さなくなった社会は、どこかうら寂しい。
 歳歳年年、人の心の変転は激しく常識を超え、価値観を変えて行く。
 冒頭の句が、唐詩『白頭を悲しむ翁に代はる』の一部であることを私が知ったのは、ずっと後のことである。
 また、作者の劉希夷が「年年歳歳」以下の2句を、しゅうとの宋之問に譲らなかったがために殺害された、という伝説があることも知った。
 教室の黒板に、白くチョークで書かれたこの句から響いてくる無常観が、頭の芯から全身にかけてしびれるように伝わってきた感動を、40年経った今も、私は覚えている。
 

第6部 戦後の開拓地で(3)

2007年05月20日 09:41

 日食とサンマータイム―エッセイ―

 カンテラの油煙でいぶしたガラス片をかざし、日食の始まるのを待っていた。
 やはりそうか――ぼくはもう一度、薄暗い家の中に戻り、古ぼけた柱時計と見開いたままの少年雑誌のページとを見比べた。
 時計の針は予定時刻の午前10時を、すでに過ぎていた。
 そうか、日食はサンマータイムでなく標準時間で始まるのだ。
 ぼくの手持ちの雑誌には、「夏時間は1時間繰り下げ」といった注記は加えられていなかった。 新聞もラジオもない山の中の暮らしでは、こうした身近な情報すら伝わってこない。
 戦後、わが国で初の日食を観測ができた日は、昭和23年5月9日の日曜日だった。  同様に、サンマータイムが初めて試みられたのは、その1週間前の5月2日の日曜日から9月11日の土曜日までである。
 「サンマがタンマするて、どういうことね?」
 “サンマー”はもちろん“サマー”のこと。当時はタブロイド版1枚の大新聞や雑誌でも、そんな間延びのした発音はしなかった。
 「夏時間? お日さんが1時間早よう出んさるようになるんの?」
 村に新しいかカタカナ語が入荷すると、ぼくたち新制中学生は下校時に、立ち話中のおばさんや年寄りたちにつかまり、このような珍問奇問を受けることがままあった。
 農協の木炭トラック1台が唯一の文明の利器であるこの村にも、戦後の学制改革で広島県北方村立中学校が創設された。
 村の最高学府で学ぶぼくたちは、つぎはぎだらけの服にワラぞうりといった貧相な出で立ちであったが、学業はともかく意気だけは軒昂であった。
 通りすがりの青年団の兄やんが、こうした話の輪に首を突っ込んだりすると、
 「なんせ、マッカーサー元帥の命令じゃけぇ。どがいにもならんのよ」
最後に、したり顔でこう結論づけると、一件落着するのが常だった。
 占領軍統治下のこのころ、進駐軍の米軍兵士やジープを見かけることもない辺ぴな田舎でも、連合国軍最高司令官ダクラス・マッカーサー元帥の名を掲げれば、水戸黄門の印籠ほどにご威光があった。  そんなサンマータイム騒動も一時のこと、村全体の日常生活には何の影響も及ぼさない。
 学校が夏休みに入ると、夏時間を励行させられるのは隣接都市への通勤者か、村役場や農協で働いている一握りの人たちだけだった。
 村にも農協の隣に「子供製造株式会社」と呼ばれる家があるにはあった。
 もちろん法人格のある正式な会社ではない。
 この家では毎年のように子供が生まれるので、ませたガキどもが命名しただけのこと。
 そんな悪童どもも、この会社の始業時間が繰り上がったかどうかまで関心はなかった。
 村の人たち以上にサンマータイムと無関係だったのは、村の里山からさらに奥に入った森林地帯で生活を送っていたわれわれ開拓民である。
 用倉と呼ばれるこの一帯は、いまでこそ近代的な広島空港に変貌しているが、当時はどこからともなく聞こえてくる朝6時のサイレンに、柱時計の針を合わせておけば事足りた。
 1日に10分や20分の狂いなど、開墾作業にまったく支障はない。
 電灯もなく、ラジオや新聞などの情報源を持たない文明社会と隔絶した不毛の地では、暮らしのリズムはすべてお天道様にゆだねるのが最も賢明であり、理にも適っていた。

 ぼくは、夏時間を1時間繰り下げた標準時間を確認し、再び表へ出た。
 太陽はゆっくり欠けはじめた。
 お日様はサンマータイムなど、どこ吹く風、歯牙にもかけなかった。
 この日、北海道の礼文島では日米観測陣が金環食の撮影に成功した。



イラストと記事は『昭和2万日の全記録』(講談社)、新聞切り抜き記事は、朝日新聞(縮刷版)の昭和23年4月28日号(夏時間への切り替え)、同年5月10日号(礼文島の金環食)。ちなみに、大阪では、欠け始め=9時58分、最も欠ける時刻=11時25分1秒、日食の終わり=12時58分であった。




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