第6部 戦後の開拓地で(1)

2007年05月08日 12:12

 60年ぶりの再会
 
 平成5年10月に開港した広島空港には、これまで4、5回訪れているが、いつも空港ビルの送迎デッキから滑走路や遠景を一望するのが決まったパターンだった。
 今回は違った。
 3人の後輩が案内してくれたのは、空港開設で立ち退きになった元用倉開拓地の記念碑(写真右横)が建立されている展望台だった。
 中学校卒業以来、60年ぶりに再会した3人が私のため、その日の日程に組み入れてくれたのだった。
  ホー ホケキョ ケキョ ケキョ
 春のほどよい陽光を浴びながら、新緑に覆われた静寂な山頂の展望台にたたずむと、聞き覚えのある鴬(うぐいす)ののどかな鳴き声が迎えてくれた。
 60年ほど前の春の昼下がり、掘り起こしたばかりの開墾地に立ち、手を休めていると、近くの林のどこからか聞こえてきた。その昔の鳴き声と少しも変わっていない。
 標高は350?。運転を買ってくれた梶本君によれば、空港全体を見晴らすには、ここが一番だという。(写真中央下)
 私たち4人(写真左下)は当時、この用倉から5?ほど下った北方村に創立されたばかりの新制中学校へ通っていた、いわば同窓生である。
 この開拓地では私が1期生、梶本君と栗栖さんは1級下、旧姓中島さんは2級下だった。
 だが、60年の歳月は容赦をしない。
 彼や彼女が中学生だったころの面影を追い求めるのも容易でなかった。
 それどころか、栗栖さんや中島さんの弟さんをはじめ、私の記憶にある小学生の多くが、すでに鬼籍入りしている。



 「年年歳歳……」、校長の“贈る言葉”

  「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」
 卒業前、校長の最後の授業で黒板に白いチョークで書かかれた、この対句が思い浮かぶ。
 校長は、「年年歳歳 花 相ひ似たり 歳歳年年 人 同じからず」と読み、「年ごとに花は同じ姿で咲くが、それを見る人は年ごとに変わってしまう」と語釈してくれた。
 20年ほど前になるが、その時の感動をエッセイで、次のように書いたことがある。
 「その時、この唐詩の対句から響いてくる無常観が、頭の芯から全身にかけてしびれるように伝わってきた感動を、40年を経た今も覚えている」と。
 講師は講評のあと、「15歳そこそこの中学生で、この詩に無常観を感じるとは……、それまでによほどの人生体験をしている人ではないか」と、やや懐疑的な感想を述べられた。
 私としては、虚飾も誇張もなかったつもりである。
 敗戦後の満州で異状な体験をしてきたことを、講師はもちろん知らない。
 余談だが、この唐詩が劉希夷(りゅう き い)の『代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わる)』の中の対句であり、次のような逸話があることを知ったのは、ずいぶん後のことである。
 劉希夷は、この詩を発表するに先立ち、舅(しゅうと)にあたる宋之問(そう し もん)に見せたところ、之問は「年年……」以下の二句をたいそう気に入り、「この句をわしにゆずってくれ」と言い出した。
 希夷はいったん承諾したものの、あとでやはり惜しくなり、結局自作として発表してしまった。
 之問は激怒し、下男に命じて希夷を土嚢(どのう)で圧殺させ、この詩を自作に加えたという。
 この逸話の信憑性は疑わしく、清の沈徳潜(しん とく せん)などは、きっぱりとこれを否定している。
 もっとも、『宋之問集』などには、この詩が宋之問作として収められていることは確かである、と。

 森林治療(?)で肋膜炎は快方へ

 話はそれたが、用倉に連れてこられたばかりのころは、火吹き竹(火をおこすために使う30~40?の竹筒)に息を吹き込むことすらできなかった。
 背中にズキンと痛みが走るのである。
 それが半年ほど経つと、約5?の山道を下って村の学校に通えるまで体が回復した。
 それどころか、登校日に炭俵2表(1表4貫目、約15?)を背負子で背負い、村の農協に下ろしてから学校へ向かうことすらあった。
 用倉山に上がってからは、一度も医者にかかることも薬の世話にもなってもいない。
 「森林治療」という言葉を聞いたことがある。
 最初に入植した場所は、ヒノキ林の真っ只中だった。四六時中、森林浴に浸りながら暮らしていたようなものである。
 それが自然治癒力を高めてくれたのだろうか。
 のちのち、健康診断でレントゲン写真を撮るたびに「肋膜に影がある」と言われたものだが、いつしかそれもなくなっていた。

第6部 戦後の開拓地で(2)

2007年05月18日 14:46

 広島空港に変貌した開拓地

 元用倉開拓地の原風景は、近代的な広島空港ビルや長大な滑走路と周辺地区に新たに設置された付帯施設などによって、完膚(かんぷ)なきまでに変貌した。
 特に東西に走る滑走路は、下の縦断面図に見られるように高低差の激しい地形を均した上に乗っかっているのだ。 「用倉に空港ができる」と初めて聞いたとき、あの山の上の丘陵地に「飛行場など出来るはずないじゃないか!」と、わたしは一笑に付していたものだ。
いま目の前に見る土木技術の水準の高さは、門外漢のわたしを驚嘆させる。
戦後、日本列島の至るところで古里は激しく変貌しているが、これほどドラスチックな変容を遂げたところは少ないのではなかろうか。
60年前にわたしたち一家が住んでいた場所は、滑走路の右先端近くのグリーンの下にすっぽり埋もれている。
 かつて、ドラム缶の風呂に浸りながら眺めた、向かい側の小高い山、その松林の茂みの合間から緩やかに昇る月影、谷間をちょろちょろ流れるせせらぎの音。
中学3年生だったころの記憶につながる風景や地形や音は、見事に抹殺されている。
  ひとっ子ひとり通らない、夜の静寂に包まれた山の中で、人跡でできた細い道に沿って走る小川のせせらぎの音を聞きながらの一人だけの入浴。
 いまならさしずめ風流、風雅のひと時と言えそうだが、当時はそんな心境に浸るゆとりなどなかった。
 いつになれば飢餓から脱却できるのか。
 雨漏りのしない電灯と畳の上での生活に戻りたい、それが当時の強い願望だった。
 その見通しすらつかない、山の開拓地での暮らしは、ただ絶望感を募らすだけだった。





 国有林を追われる
 
 滑走路の下に埋もれた元のわが家一帯は北方村の村有林で、再入植した場所である。(下図、右端の池の上方辺り)
 父が最初に入植した地区は国有林だった。
 村有林に移り住むことになったのは、おそらく昭和23年の5月下旬か6月に入ってからだろう。
 ある日の夕方近く、炭焼き窯(がま)の中で炭にする生木を詰める仕事を手伝っていた。
 そこへ、国有林の用倉組合長とその弟の2人が入ってきて、父を外に連れ出して行った。
 しばらくして戻ってきた父の顔が、強ばっているのが薄暗い窯の中でも分かった。
 おそらく、顔色も血の気が引いて青白くなっていたであろう。
 父はわたしには何があったか一切しゃべらず、ただ黙々と生木を釜の中に縦詰めしていった。
 組合長兄弟の突然の訪問は、父に一家の立ち退きを命じに来たのだった。
 わたしたち一家は、入植して一年半にわたって開墾した土地や掘っ立て小屋の住家など、すべてを残し、同地から放逐されることになった。
 父は元支那(現中国大同)の外務省領事館付警察官であった組合長兄弟とは、前々からそりが合わず、組合の運営方法などにも、さまざまな確執があったようだ。
 組合長兄弟が国有林の入植登録第1号で、次が父と聞いている。
 不惑手前の父より、年は若かった。
 得てして、人間同士の確執は、そんな瑣末な事柄から発することもある。
 それはともかく、追放される決定的な原因は、父が農繁期に本家の河戸に手伝いに出かけ、組合の共同作業には母を出していたことにあったようだ。
 本家には祖母と学齢前の長男を抱える父の妹が、京城から引き揚げて以来、ずっと居候していた。
 さらに本家では一粒種の長男が戦死しており、農繁期には男手が足りず父が頼りにされていた。
 そんな事情を抱えていたとしても、非は父にあることは確かである。
 あれは学校からの帰り道だった。
 わたしは、村の農家で分けて貰ったサツマイモの入った袋を背負子に乗せ、その重さでうつむき加減に坂道を登っていた。
 用倉組合の男たちが、山道の側溝掘りの作業をしていた。
 その横に差し掛かると、
 「こら! おどれ(お前)、ご苦労さんの挨拶ぐらいして通ったらどうなら! おどれの足、このスコップでへし折っちゃろか!」
 鋭い罵声が飛んできた。
 声の主は、いかつい体つきの組合長の弟だった。
 作業をしている男の中に、父の姿は見当たらなかった。
 数日後、梶本君(前述のK君)のお母さんが母を訪ねて来た。
 「いまからでも遅うないけぇ、組合長さんの所に行って謝ってきんさい。徳広君が可哀そうじゃけぇ。うちの子がそう言うんよ」
 罵声を浴びて以降、わたしは組合の男たちが作業している道を避け、細い山道を迂回して帰宅していた。
 そのことを梶本君は、彼のお母さんに話したのだ。
 「(初代の組合長兄弟に)ここから出て行ってくれ! 言われたときは、これからどがいしょうか、ほんまに悩んだよ」
 後年、父は広島弁で述懐した。
 結局、最後の選択肢は村有林に入り、開拓生活から抜け出すことはしなかった。
 それにしても“村八分”ならともかく、組合員の生殺与奪の権を一組合長が握っていたとは。
 さらに不可解だったのは、村有林にいた人がわたしたちの跡地を譲り受け、そのまま用倉組合の理事に就任していたことである。


(写真や図は『HIROSHIMA AIRPORT 夢・未来 庭園都市』(広島県空港港湾局空港対策課)、『新広島空港の開港に向かって』(運輸省第三港湾建設局)等より)


第6部 戦後の開拓地で(4)

2007年05月27日 15:44

 入植初期の心象風景

 60年経った今でも、瞼(まぶた)に映ずることのできる情景がある。
 用倉という開拓地に入植した初期のころである。
 父母は芋がゆなどで朝食を終えると、そそくさと開墾作業の身支度を整え、外から声がかかるのを待機の姿勢で待っていた。
 声がかかると即座に家を飛び出し、人間の足跡で出来た細い道を進む一列縦隊の背後を小走りで追いかけた。
 隊列は歩を緩めることなく、その日の開墾予定地への道順に従い、初めに家を出た人が次の家の前で声を掛け、さらに次の家へと進み、黙々と連なっていく。
 男は戦闘帽、肩には扇型のクワやオノをかつぎ、腰には鞘(さや)に収めた伐採用のノコギリとナタを紐で吊るしている。
 「開墾七つ道具」ともいうべき装備である。
 女たちは姉(あね)さん被りにモンペ姿。肩にはやはり扇形のクワ、手には下刈り用のカマを持ち隊列の中に混じっていた。
 扇形のクワは、開墾用に作られた特製のものでかなり重量があった。
 その後ろ姿は、戦前の社会的地位や生活基盤を失い、裸一貫で入植した人たちのスタートを彩る原風景であった。
 父母が開墾に出かけると、わたしひとり家に取り残された。
 病み上がりで何も出来ないわたしは、そのたびになにかしら焦燥感にかられるのだった。
 新聞やラジオのマスコミ情報だけでなく、個人と個人のミニコミ情報に接することもない、情報を閉ざされた空間で生存しているのは辛いものである。
 将来の展望も希望も探りようがないのだ。
 家の壁の隙間に貼られた古新聞に、炭坑の坑夫募集の求人広告があるのを見て、家を飛び出し、応募してみようかと考えたこともある。
 炭坑の仕事がどんなに過激な労働か、世間知らずのわたしには分かっていなかった。
 肋膜炎を患っている少年を雇ってくれるわけはないが、ともかく思いとどまった。
 わたしに出来る仕事といえば、家の前の開墾したばかりの畑に入り混じった細い木の根や、石ころなどを取り出すことくらいだった。
 それでも、畑の中にたたずんでいると、ふと、自分はいま「故国」の土を踏んでいるという安堵感に包まれることがあった。
 そして、ほんの2カ月ほど前まで踏んでいた満州の土は「異国」のものだったのだ、と。

第6部 戦後の開拓地で(5)

2007年05月31日 11:56

 1人1合の酒

 わずか1人当たり1合の酒の集合体に、あれほど男たちが歓喜し、陶酔する姿を見たことは、いまだかつてない。
 それも、まだ1滴の酒で喉を潤す前の状態であった。
 わたしが開拓地の用倉に上がって、間もないころだった。
 新憲法公布が昭和21年11月3日に決定したのを祝し、大人1人当たり日本酒1合の特配があると、父が顔をほころばしていた。 
 その日、バラック建ての用倉公民館に入ると、北方村の配給所から特配の日本酒を山まで背負子で運んできた男たち4、5人が、せわしなく活動していた。
 それぞれ1升ビンを抱え、中身を(記憶違いかもしれないが)酒樽だったか、何かの容器に空けているところだった。
 どの顔も喜色を満面に浮かべ、軽口や冗談が自然に口をついてでるのだろう、お祭りの準備でもしているかのように、心も弾んでいるのが伝わってきた。
 やがて、中身が空っぽになった1升ビンを逆さにし、最後の1滴まで吐き出さそうと、ビンの底をゆったり回し、試みて見せる男も現れる。
 そのうち、1升ビンの口からぽとりと1滴したたり落ちると、周りで見ていた連中が一斉に「おう!」と歓声をあげ、その男に喝采を送る。
 狭い館内は、無邪気な童心にかえった男たちの浮き浮きした雰囲気で充満していた。
 戦時中の標語をもじるならば、のん兵衛にとって、“酒の1滴は血の1滴”という趣だ。
 開墾に上がった男たちは、いつごろから酒を口にしていないのだろうか。
東京では、昭和21年の正月に酒1人5合(表参照。『復録版 昭和大雑誌 戦後編』流動出版)が配給されている。
 

 地域差はあるやもしれないが、おそらく山の男たちもこの年の正月以来か、さらには敗戦以来という人もいたに違いない。
 街中にいれば、懐と相談してカストリ焼酎などをあおることも出来ただろうが、山の中での暮らしでは、そんな機会はつくれないし、財力もなかったであろう。
(写真は『朝日クロニクル 20世紀』第4巻)

 満州にいたころの父は、戦時中でも酒に不自由することはなかったと思う。
 酒保(軍の売店)で配給されるほか、軍事郵便所に出入りする下士官連中が、1升ビンを提げてわが家に押しかけ、母の手料理でよく酒盛りをしていたものである。
 下士官でも曹長、軍曹クラスだと、酒保にいる同年兵に融通を利かしてもらい、酒を手に入れることが出来たらしい。
 「一つ 軍人は要領を旨とすべし」である。
 満州の海林(はいりん)で迎えた昭和20年の元日も、父の同僚らがわが家に集り宴会を開いていた。
 宴もたけなわなころ、朝鮮の京城から祖父の死を報せる電報が届いた。
 大みそかの大掃除中に急に頭が痛くなったというので、ふとんを敷いて寝かしていたら、そのまま息を引き取っていたそうだ。
 享年66。日本の敗戦を知ることなく、あっさりした死に方だった。
 わたしは、祖父のその遺伝子だけはぜひ受け継ぎたいと願っている。

 特配の酒は、開墾作業を終えた組合員が集って、ささやかな酒宴を開いたのか、それとも各戸に配分したのかは知らない。
 また、わたしがなぜ公民館まで足を運んだのか、その理由も思い出せない。
 だが、あの時のわずか1人1合の酒は、山の男たちにとっても、その後に味合うこともできない至福の味だったに違いない。


(『漫画昭和史 漫画集団の50年』河出書房新書)

第6部 戦後の開拓地で(6)

2007年06月04日 14:19

 戦後余話、杉野生存説と東條実弟のルンペン

  ♪轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸
 荒波洗ふ デッキの上に
 闇を貫く 中佐の叫び
 「杉野は何処(いずこ) 杉野は居ずや」
 尋常小学校唱歌『広瀬中佐』のなかで歌われた杉野兵曹長の生存説を聞いたのは、河戸の三枝叔母からだった。
 杉野兵曹長は、日露戦争で旅順港閉塞作戦に従事し、日本初の「軍神」となった広瀬中佐と運命をともにした軍人である。
 新聞に載っていたのを、村の誰かから三枝叔母が聞いてきたらしい。
 杉野生存説には信憑性に欠けるところがあり、何の感慨もわかなかったが、今もなぜか記憶に残っている。
 つい最近、朝日新聞縮刷版(復刻版)をめくっていると、東条英機大将の実弟が昭和22年2月に大阪でルンペンをしていたという記事が目に止まった。
 こちらの方は、時間的距離が身近なせいか興味をそそられた。
 実弟がルンペン生活をしていたころ、兄英機の家族はどんな暮らしをしていたのだろう。
 「戦犯家族はどうしているか」(『レポート』23年7月号)という特集記事が、復録版『昭和大雑誌 戦後篇』流動出版)に掲載されている。
 [東條]の項の一部を拾うと、
 住所は世田ヶ谷区玉川用賀町。
 洋風の玄関に「東條輝雄」の表札がかかっている。
 輝雄氏は大将の次男だが、いまはこの家に輝雄氏一家4人のほか、大将婦人のカツ子さん、三男の敏夫さん、長女光江さん、三女幸枝さん、四女君江さんと、総勢9人が一しょに住んでいる。
 カツ子さんは、家の裏手の畠で終日まつくろになって働いている。
 家計を切りつめる意味もあろう。(中略)
 輝雄氏夫人の美代子さんが大将の四女君江さんと一しょに、こえ桶をかたわらに黒い畑土をたがやしていた。(中略)
 東條家の金銭収入としては、輝雄氏の俸給、仙台の英隆氏(長男)の若干の仕送り、それに「無職」のカツ子さんが「生活費」として毎月預金から引出す爪のあかほどの金額があるだけ(中略)。
  一家総がかりの畠仕事のほかに、娘さんたちは洋裁や編ものなどで家計をたすけているそうだ。
 東條家は英機の父も陸軍中将で軍人の血統だが、長男次男は軍籍に進んでいない。極端な弱視だったからという説がある。
 次男の輝雄氏は、昭和12年に東京帝国大学航空学科(機体専修)卒業、三菱重工に入社。
 堀越二郎氏の設計チームに配属され、零戦の設計に従事。
 戦後は一時、日本航空機製造設計部長として戦後初の国産旅客機YS-11の開発に携わる。
 昭和56年 三菱自動車社長
 昭和58年 同社会長
 なお、長男の英隆氏は戦後、笹川良一氏に迎えられ日本船舶振興会に勤務していた。


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