第1部 運命、それぞれの岐路(6)

2006年06月20日 16:49

  石門子余話

 石門子校の在校生中、親が軍人だったのは石門子憲兵分所長の志田憲兵准尉ただ1人。5年生の娘と1年生の息子がいた。
 ほかは皆民間人で、ほとんど関東軍の御用商人か軍関係の人たちである。
 同級生の川崎さんと4年生男子の松本の親は慰安所の経営者だった。
 不思議なことに、憲兵分所長や本間校長を含め、ほとんどの日本人が高い土塀に囲まれた満人部落に住んでいた。



 家の方角は違っていたが、部落の外から学校に通っていたのはぼくと、川崎、松本の3人だけだった。
 三浦先生の歩兵部隊は、東の小高い山のふもとに兵舎が展開していた。
 南北に流れる幅百?ほどの川をはさんだ西側に、ぼくの住む官舎があった。
 三浦先生は営門の前に架かった木造の橋を渡り、通り道に住むぼくを誘って登校するのが常だった。2人は満人部落の東門から、川崎、松本の両人は西門から登校していた。
 ぼくが石門子を離れる少し前に、大工の息子が5年生で転校してきたが、彼の家も部落の外だった。
 一度、彼の家に連れて行ってもらった記憶があるが、親は留守だったかなにかで、どのような人物だか知らない。
 戦争も末期近くに石門子のような僻地にまで流れ込んで来た大工とは――。
 前掲の石光真清の手記『望郷の歌』(中公文庫)を読んでいると、次のようなくだりがあった。
 日露戦争後、満州に出稼ぎに来て乞食同様の姿になった大工のことである。
 日露戦争後に新聞が毎日のように、若者よ満蒙の天地が待っているとか、志ある日東男子よ! 大陸に理想の天地を拓(ひら)け、と書きたてていたので、ついその気になって(中略)家を売って旅費をつくり、大きな夢を胸に大陸へ渡って来た。
 聞くと見るとは大違いというが、その大工の見た満蒙の天地は、貧乏人と失業者と兵隊と疫病の天地であった。
 「大工だと?」
 「はい、出稼ぎに来ました。お願いします」
 在留の日本人は、これを聞いてふき出した。
 「ばかをいい給(たま)え。この辺の家屋は土を練って四角に固めて煉瓦(れんが)を造り、これを積み重ねて造るんだよ。大工なんて代物(しろもの)は要(い)らねえんだよ」

 その通りなのだ。石門子の陸軍官舎の建物も煉瓦建てである。
 居間は日本式の畳敷きだが、畳の表替えは部隊から畳職人だった兵隊が来て仕事をしていった。
 大工仕事にしても事情は同じだろう。
 辺ぴな国境で大工仕事にありつけるとは、とても思えない。
 あの親子も、日露戦争後に満州まで出稼ぎに来た大工と同じ様な運命をたどっていたのかもしれない。

 余談になるが、5年生の秋、牡丹江から転校した直後のこと。
 隣の机の川崎さんが、
 「うちにはお姉さんが沢山いるの」
 ぼくにそう話しかけてきた。
 奇妙な家庭があるものだと考えていると、
 「うちには兵隊さんたちが大勢遊びに来るの」
 さらにわけが分からなくなった。
 川崎さんは自分の家の紹介をしたつもりなのだろうが、奥手でその方面にうとかったぼくは、ただポカンと聞いていた。
 「けさ、お姉さんたちが、朝ごはんに入っていた大豆をよけて食べていたので、お父さんが贅沢(ぜいたく)だ”! と怒っていた」
 彼女は自分の家での出来事を毎日のように話してくれた。
 さらに、
 「軍事郵便所の人で、お姉さんたちが“大黒さん”と呼んでいる人もよく遊びに来るの」
 その人なら、ぼくにもすぐ見当がついた。
 確かに大黒さんのイメージの独身者がいた。
 じっとしておれない性格のようで、
 ある日の夕方、仕事の終わった郵便所に何かの用事で行ったときだ。
 大黒さんが四角いロボットのような顔をした電話器で、しきりに喋っているのを見かけた。
 話の内容から、交換台に電話をつないで女性の交換手相手に冷やかしているらしい。
 国境の辺ぴな寒村には、これといった飲み屋も娯楽施設もないのだ。
 若い独身者が無聊(ぶりょう)を慰めるとしたら、川崎さんの家のようなところしかないのだろう。
ぼくも牡丹江にいた時のように遊び仲間がおらず、父が取り寄せてくれる講談社の『少年倶楽部』が唯一の楽しみだった。
 それも隔月間となり、ページ数も月ごとに減っていった。
 川崎さんは、家に帰るとお姉さんたちに学校での出来事を逐一話しているようだった。
 お姉さんの中に、三浦先生に興味を持っている人がいるらしく、部隊から持参した弁当のおかずを見せてもらい、そのお姉さんに報告したりしていたようだ。
 
 大人たちは、慰安所のことを“ピー屋”と呼んでいたが、石門子にはピー屋は3軒あり、川崎、松本の両家以外にもう1軒あったようだ。
 大人たちの話を聞くともなしに聞いていると、
 “満ピー”、“朝鮮ピー”“、日本ピー”と民族別にランクづけされ、買うときの値段もこの順に高くなるらしい。
 将校専用の慰安所はまた別で、石門子より北の方の東綏(トウスイ)にあったそうだ。

第1部 運命、それぞれの岐路(8)

2006年06月24日 15:45

                 
  無敵関東軍を信頼

 話が横道にそれたが、再び場面をソ連軍侵攻当日早朝の元営林局の仮の寄宿舎に戻す。
 ぼくたちはベッドに腰を下ろした機甲班の4年生を囲み、その口元からそれ以上の情報が洩れてこないか、すがる気持ちで見つめていた。
  当直の先生に命じられ、単に伝達に来ただけの先輩が最前線の状況を知るはずはないこと分かっていた。
 不安の色を隠せない後輩たちを勇気づける必要を感じたのか、
 「満洲には日本の最精鋭を誇る“無敵関東軍”百万が配置されているのだ。そうたやすくソ連軍なんかにやられるわけがない」
と、力説し始めた。
 「ソ連側が不可侵条約を一方的に破り、不意打ちをかけてきたのだから緒戦は劣勢に立つかもしれない。
 だが、そうあっても必ず戦局を挽回(ばんかい)するに違いない」
 先輩もソ連の軍事力についての知識は皆無であったと思う。
 だが、自分たちの望まない現象は起こらないと信じたくなるものだ。
 われわれも威勢のよい言辞に勇気づけられ、不安も次第に薄らいでいった。
 「おれは機甲班で自動車の運転を習っている。戦車だって自動車と運転は同じだ。牡丹江までソ連軍が攻め込んできたら、おれも戦車に乗って闘わしてくれんかなあ!」
 意識の昂揚した先輩は切歯扼腕(せっしやくわん)、いますぐにでもソ連軍との戦闘に参加したい意気込みを見せた。
 ぼくたちもソ連兵と一戦交えてみたい衝動に駆られ、第一線に出て戦う可能性のあるこの機甲班生を羨望(せんぼう)の目で見つめた。
 話がはずむうちに、
 「無敵関東軍だ、ひとたまりもなくソ連軍をやっつけてしまうから、そんな機会を望むのはむり理だろう」
 つごうのよい結論に落ち着いた。皆、口々にそれを残念がった。
 国境から来ている連中の心のうちを忖度(そんたく)できないが、彼らは軟弱な男と思われたくないので虚勢を張っていたかもしれない。
 ともかく牡丹江は内地と違って、これまで空襲の経験もなく、空から降ってくる爆弾や焼夷弾の恐ろしさにあっていない。
(上の写真は『昭和2万日の全記録(第6巻)太平洋戦争』講談社)

 戦争は遠く離れた想像の世界でしかなかった。
 われわれが自己陶酔に陥っていたころ、当日朝の牡丹江のラジオ放送は、
 「ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、不法にも全国境から我が国に侵入を開始しました。
 しかし我には、関東軍の精鋭百万あり、全軍の志気は極めて旺盛、目下前線では激戦を展開、ソ連軍を撃退中であります……」
これでは、われわれの勝手な情勢判断と五十歩百歩である。

  張子の虎だった関東軍
 そのとき関東軍の精鋭は南方や,本土決戦のため内地に転用され、武器、弾薬も底をつき、もはや「張子の虎」だった。
 ソ連軍を迎え撃つ関東軍は兵員こそ70万人に達していたが、現地満洲での兵力調達で5月に約20万人の在留邦人を、8月に入るとさらに10万を招集。
 これら根こそぎ動員による招集兵は、軍事訓練を受けることもなく、戦車、砲兵、航空部隊の重装備は皆無に近く、小銃すら充分に行きわたらない未教育の兵の集団に過ぎなかった。
 ぼくらの身近なところにも変化はあったのだが、見過ごしていた。
 4月に入学した1年生は120名いる。そのうち14人が5月から6月にかけ岩国中、丸亀中、唐津中、飯田中など内地の学校に転校。なかでも5月31日には8名が一度に去っている。関東軍の大幅な内地転出があったのだ。 
(上の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)

 部隊の移動が外部に洩れるのを防ぐため、ごく一部の関係者以外には内密にしていたのだろうか。満州の学校で転校は日常茶飯事だったし、入学間もなかったから同級生同士でも、なじみが浅かったせいかもしれない。
 8月9日午前零時を期して進撃したソ連赤軍は、ワシレフスキー元帥率いる極東方面軍で、虎頭(コトウ)、綏芬河(スイフンガ)、東寧(トウネイ)、老虎山(ロウコザン)、琿春(コンシュン)の東部国境線一帯に巨大なスターリン型重戦車を先頭に怒涛の進撃を続け、情勢は刻々と悪化していたのである。


(左はカチューシャ・ロケット砲 『図解・ソ連戦車軍団』 並木書房、上はスターリン型戦車 『世界の戦車』 菊地晟著・平凡社カラー新書)

第1部 運命、それぞれの岐路(9)

2006年06月26日 15:22

             
  敵愾心に燃える

 〈学校長全校非常招集令下、学徒遊動隊総隊長ノ統率ノ下、第二大隊(星輝中学部隊)血盟式挙行〉

 かねてから有事の際は、「牡丹江学徒遊撃隊」が結成されることになっていたらしい。
 牡丹江には、牡丹江、星輝の2中学校、それに青年学校1校、国民学校(小学校)3校があった。
 編成は、牡丹江中学校が第1大隊、星輝中学校と昭慶(しょうけい)国民学校が第2大隊、青年学校と円明(えんめい)、聖林(せいりん)両国民学校が第3大隊となっていた。


(本校教員と4年生一同。本校正面玄関にて、昭和20年6月1日撮影)

 3個大隊とは、ものものしいが年齢12歳から16、7歳くらいまでの中学生と、10歳以上の国民学校高学年の生徒児童に過ぎない。
 手にしているものは木銃だけ。
 徒手空拳に等しい少年の集団が、どれほどの戦力となるかはなはだ疑問であった。
 わが校の場合、6月に学徒動員令が発令され最上級生である4年生は、機甲班の20名を残し、満州西部にある白城子(ハクジョウシ)の満州航空平台飛行機工場に出はらっていた。
国境近くの開拓地に派遣されていた2、3年生はソ連軍侵攻前夜に帰還していたが、人員数は1年から機甲班の4年生まで総員300名弱、1個中隊並みだった。
 ぼくたち1年生は物資不足で学校の制服を購入できず服装はまちまち。
 チビのぼくなどは半ズボンにゲートルといった格好だった。
 はたから見れば貧相な子どもにしか映らなかっただろう。
 これでも一端(いっぱし)の少年兵気取りで、「牡丹江市民の援護、学園死守の重責完遂に決死敢闘を宣誓」し、ソ連軍に対し“撃ちてし止まむ!”の敵愾(てきがい)心に燃えていた。
われわれ日本人には「大和魂」があるのだ!

  自宅通学の朗報

 〈寮生中自宅又ハ親戚ヨリ通学可能ナル者ニ対シ、帰宅ヲ命ズ〉
理由…時局ノ要請ニヨリ旧男子星輝寮ヲ軍病院(7月末、第5部隊野戦病院)ニ提供、元営林局庁舎ニ転居ノトコロ井戸水ノ湧出量乏シク多人数ノ炊飯著シク困難ナル上、新事態ノ発生ハ更ニ早急ノ方途ヲ必要トセラレタルニヨル

 市内に自宅または親戚のある者、近郊より通学可能な者は即刻帰宅してよいことになった。
 理由はともかく、ぼくにとってこれは飛び上がるほどの“朗報”だった。
 本来なら夏休みで帰省しているころだ。
 4年生の機甲班と、3年生のグライダー滑空訓練生を除き、6月に入ると上級生のほとんどが勤労動員に出動していた。
  また、1期生(4年生)から就学年数が5年制から4年制に短縮された。
 こうした事情や時局柄だろうか、待ちこがれていた夏休みが返上となり、大いに落胆していたところだった。
 4月に入寮以来、ホームシックと慢性的な空腹に悩まされていた。
 朝はおかゆ、昼の弁当は毎日、判を押したように冷凍の魚とひじきの煮付け。
 弁当は左右に振ると中身は3分の2か半分くらいに減る。
 空腹感がホームシックを一層募らせていた。

 ただ、この学校では期末試験の結果が悪いと、夏休みの帰省は不許可となり、その間は寮に残って自習することになっていた。
 そんな場合の秘策を薩摩藩主と同姓のSさんから、ぼくは伝授されていた。
 「理由はなんでもよいから、家から電報を打ってもらうこと」だった。
 彼は昨年、この手を使って帰省したそうだ。
 Sさんは円明校の1級先輩だったが落第していた。
 同じ1年生でも、彼の方が学校の釜の飯を食った数が1年多いから、「さん」付けで呼ばなければならないのである。
 誰が決めたのか、生徒間のしきたりでそうなっていた。
 Sさんは呼び捨を気にすような人ではないが、元同級生たちに見とがめられると呼び出しを食う危険性があった。

 Sさんに、せっかく伝授された宝刀も持ち腐れになっていたが、思いがけない朗報に “帰心矢の如し”である。
 授業が終わると一目散に牡丹江駅に向かい、列車に飛び乗ると二つ目の海林駅から、わが家へと急いだ。


(外蒙古から奉天へ向かうソ連軍 『[写説]満洲』太平洋研究会編 ビジネス社)

第1部 運命、それぞれの岐路(10)

2006年06月28日 14:24

  むなしい肉迫訓練

 八月十日(金曜日)

 〈午前中 前日ノ任務ニ従ヒ服務、午後戦闘訓練並ビニ銃剣術訓練実施〉

 朝、右肩からたすき掛けにした雑のうは、いつもより重みを感じた。
 この日は母の作った弁当が入っている。
 どんなに揺すっても中身が片寄ることはない。
 おかずは寮の冷凍物の腐ったような魚とヒジキの煮付けとは違うはずだ。
 久しぶりに満腹感に満たされ、はずむ心で登校した。
 寮では早めしだ。
 朝の熱いおかゆを早く食べるにはコツがあった。
 まず、おわん型の食器のおかゆを、ふちの方から箸で集める。
 ふちの方が早く冷めるので、それを口に流し込む。次は表面の薄い膜を集めて、それを口に入れる、といった具合に食べていく。

(寮の食堂と厨房)

 こうした知恵は誰からともなく授かった。
 今朝はそんなわずらわしさから開放され、ひさしぶりにゆったりした気分で朝食を堪能できた。
 余談だが、寮の朝食がおかゆになったにはわけがある。
 普通のご飯だと配ぜん当番の下級生は、上級生の食器には大盛りにする暗黙のルールがあった。
 その分だけ下級生の量が減ることなる。こうした悪弊をなくすため学校側が考えた策だと聞いた。
 学校では1年生は午後から、ソ連軍戦車に対する肉迫攻撃の訓練を受けた。
 記憶はあいまいだが、次のような形態でなかったかと思う。
 破甲爆雷に模した板切れを胸にかかえ、模造戦車に一定の距離まで走り、戦車の近くになると、銃口の死角を想定して地面に伏せる。


[上の写真は「吸着爆雷」]
地雷の4すみに磁石がつけられ、上を通過する戦車の底に吸いつき爆発
する。兵士がタコツボを掘って中にひそみ、通過する戦車の下にもぐりこ
んで、これを戦車の腹に吸いつけたが、兵士の生還は期しがたく、まった
くの特攻だった。(『世界の第二次大戦殺人兵器』小橋良夫著 銀河出版)

 そこから腹ばいのまま、腕のひじを使って進む匍匐(ほふく)前進に入る。
 粘土を乾燥させたブロックで形作られた摸造戦車の下に、地雷には磁石がついていると仮定して、戦車の下腹に吸着させて逃げ去る(?)。
 それを全員順番に繰り返していた。
 想像力のとぼしい僕は、地雷が爆発すると自分の身体がこっぱ微塵(みじん)に吹っ飛ばされるなど毛頭浮かばない。
 僕にとって板切れは、板切れでしかなく、緊張感も悲壮感もわかないまま訓練にはげんでいた。
 訓練を見守っている陸軍少尉の若い軍事教官は、直立の姿勢で少し股を開き、軍刀のこじりを地面に突き立て、柄の上に両手を乗せた姿勢でただ黙っていた。
 ときどき、教官の顔に目を走らせて見るが、全く無表情。
 子どもたちの兵隊ごっこのような訓練など無駄だと思っているのか、気乗りしないようすだった。(右のイラストは『戦争案内』戸井昌造著・平凡社)
 普段の教練の時のような厳しさがうかがえず、気合を入れられることもなかった。
 関東軍造兵廠が製造したソ連軍戦車に対する肉迫攻撃用の急造地雷は、爆破試験の結果によると、ほとんど効果がなかったそうだ。
 全軍の志気に影響をおよぼすという理由で厳秘に付されていたという。
 極秘情報であればあるほど、親しい仲間同士の間で口から口へと伝わるものである。
 教官もすでにその情報を知っていたのかもしれない。

〈敵機上空偵察頻繁、東満侵襲、ソ軍国境突破、綏陽(スイヨウ)、東安(トウアン)地区侵入ノ報至ル〉

 牡丹江から東方20?の磨刀石(マトウセキ)で、12日から13日にかけての石頭(セキトウ)陸軍予備士官学校生徒の凄惨(せいさん)な戦いぶりが、このことを証明している。
 時速約20?と推定される敵戦車は、穆稜(ムーリン)からの道路上に黒々とひしめいて接近してくるのだ。
 まるで黒い岩の塊(かたまり)のような戦車、あれがスターリン戦車というのか。
 (中略)また一瞬ものすごい閃光(せんこう)がひらめくと、黒煙が戦車におおいかぶさる。
 (やった、やったゾッ)激しく動悸が打ち鳴る。
 またまた小さな体が、パラパラッと飛び出した。四角い弾薬の箱を胸に抱きしめた戦友(学徒候補生)の姿。

 一瞬、天地の避けるような轟音(ごうおん)が響き、黒煙の中に戦車が停止するのが見えた。
 だが何ということだろう。擱挫(かくざ)したと思われた敵戦車が、再びグワッグワッと動き始めた。(『われは銃火に まだ死なず』南雅也著 泰流社)
磨刀石の肉攻陣地を蹂躙(じゅうりん)し、各地陣地・機関銃座を壊滅させたソ連機甲部隊のT34戦車は、俗に“スターリン戦車”の異名を持った当時世界最強の威力戦車である。
[右上の図はIS3(スターリン?)『図解・ソ連戦車軍団』(並木書店)]

〈軍関係者並ビニ満鉄社員子弟ニシテ父兄同伴疎開願出者ニ対シ之ヲ許容、併セテ南満地区父兄居住ノ生徒ニ緊急帰省手配〉

第1部 運命、それぞれの岐路(11)

2006年07月03日 11:25

                       
  講堂に難民の集団

  八月十一日(土曜日)

〈東満交戦地区郷軍ノ牡丹江地区転進並ビニ避難婦女子ノタメ校舎提供。生徒若干名ヲシテ救済援護ニ充ツ〉

 家が拉古(ラコ)の2年生と斉藤、坂本、海林(ハイリン)のぼくとの4人は、きのう一緒に下校したが、不通になった列車を待ち続けたあげく、とうとう牡丹江駅で一夜を過ごしてしまった。
 明け方から駅前広場で泣きわめく迷子を、群衆の中に混じって見ていたがきりがない。
 2年生にうながされて学校に向かった。
 校門に近づくと円明国民学校当時、仲のよかった日高が、玄関から出て来るのにぱったり出会った。
 「これから新京(現長春)方面に疎開することになったので、学校に休学届けを出してきたところだ」
 彼の父の所属する部隊に撤収命令が出たのだという。ぼくは牡丹江が避難するほど危険な状態にあるとは露ほども知らず、休学届けとは少し大げさ過ぎないか、と内心思った。
 避難も一時的なものだろうから、またすぐ会えるという軽い気持ちで、その場を別れた。(彼も内地に無事帰国しているが、60年余経ったいまも会う機会がなく過ぎている)


(牡丹江・円明在満国民学校)

(この2階の窓からガキどもが首を出し、道行くご婦人に、「パーマネントに火がついてみるみるうちにはげ頭、はげた頭に毛が3本、ああ恐ろしや恥ずかしや、パーマネントはやめましょう」と、はやし立てたてた。パーマネントの髪型も知らないで。パーマネントや男の長髪が禁止になったころのことである)
  
 校内は静かだった。生徒の姿はだれ一人見当たらない。
 「授業はどうなっているんだろう?」
 2年生が代表で職員室へ入って行った。
 その間、ぼくらは人影のない1階の廊下を歩き、教室を一つひとつのぞいて回った。
 一番奥にある講堂まで来て、なにげなく中をのぞいてハッとした。
 まったく人の気配を感じさせなかった広い講堂の片隅に、20人近くの人たちが身を寄せ合うようにして座っていた。
 男も女子どもも皆、なにかに脅えたような目つきでこちらを見た。
 だれ一人、口をきこうとしない。
 昨夜の避難列車で牡丹江駅に下車した人たちなのだろうか。
 無蓋貨車でトンネルをくぐり抜けてきたのか、どの顔もすすけ、妙におどおどしている。
 これが日本人かと見まがった。きのうまでの一等国民と自負し、尊大な態度をとっていた邦人たちとはまったく違っていた。
 しかし、この人たちを不審の目で、いつまでも見ているのは気の毒に感じたので、ぼくたち3人は早々に講堂を出た。
 事務室近くの校庭では、事務職員の男が1人黙々と書類の束などを炎のなかにくべていた。夏の日差しのなかで書類のページが炎でめくられていく。
 先端から灰色、赤色、黒色が混じり、めらめらと燃え上がる光景を、ぼくはただぼう然と眺めていた。
 すると、昨夜来の異変続きが頭の中を去来した。おぼろげながら自分の身辺にも事態の変化が忍び寄ろうとしているのでは、と不吉な予感に襲われた。
 だが、そんな不安を否定しようとする意識が、心の奥のどこかで働いていた。
 「きょうは、授業はないそうだ」
 2年生の報告を受けると、ぼくらは、
 「これからどうしよう?」と迷った。
 学校を出て歩いているうちに突然、斉藤が「家まで歩いて帰ろう」と言い出した。
 拉古までは山を一つ越えるとすぐで、以前にも歩いて帰ったことがあるという。拉古組みの2年生も坂本もそれに同調した。
 海林はそれより一駅先だ。ぼくはそこで別れた。
 彼らのその後の消息は、いまもって知らない。


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