第8部 開墾と山の暮らし(6)

2007年12月06日 16:01

 3年の1学期は兄と京城・西大門小に通う

 兄が用倉に戻ってきたので、新しく2階建ての小屋を建てた。
 柱にする松の木は山にあるし、自分たちの手で建てるから費用はかからない。
 地震や台風に遭えばひとたまりもないが、そんなことは考えもしなかった。
 1階は物置、2階が兄とわたしのねぐらになった。
 兄とひとつ屋根の下で暮らすのは、およそ6年ぶりだった。
 3つ年上の兄は、昭和17年に中学に入学すると、学校の寮に入ったので、それ以来である。
 小学校3年まで、兄と肩を並べて牡丹江の小学校に通学していたが、3年生の新学期は朝鮮・京城の西大門(せいだいもん)小学校に通った。
 満ソ国境の学校もない土地に、父の転勤話が持ち上がったので、兄とわたしたちを京城に住む清叔父の家に預けられることになった。
 わたしたちを牡丹江まで迎えにきたのは、京城で叔父と同居している祖父だった。
 親元を遠く離れるのは、この時がはじめてである。
列車が発車し、車窓が夜景にかわっていくにつれ、だんだん寂しさが募り、家が無性に恋しくなった。
 祖父と兄と3人掛けの座席で目をつむって、レールの継ぎ目ごとにゴトン、ゴトンと伝わる震動を聞いていると、列車がまるで後に向かって走っているような錯覚を起こさせた。
 このまま牡丹江まで引返してくれればいいがなあ……閉じた目の中で、わたしはそう願っていた。
 だが、そんなことは杞憂に過ぎなかった。
 京城の家にも、転校した西大門小にもすぐに慣れた。
 放課後は級友たちとのつきあいに追われる日々をおくり、ホームシックはほんの数日で消え去った。
 遊び場を求めて近くのはげ山まで遠征したり、南大門(なんだいもん)まで電車に乗って遊びに行ったが、帰りの電車賃を何かにつかってしまい、友だちと2人、復路を歩いて帰ったり、年上のガキ大将に力士のしこなを授けられて相撲を取ったり、と多忙を極め、机につくヒマなどなかった。
 ところが、夏休みに入ると母がわたしたち2人を迎えに来た。
 父の転勤話は、さた止みになっていたらしい。
 京城の生活にすっかりなじみ、毎日を楽しんでいたから、わたしは牡丹江へ帰ることには不服だった。
 だが、子どものわたしが口にするこことはできなかった。
〔前列一番左が母、中央は本人小1と兄小4、後列中央が清叔父。昭和14年5月、京城の写真館にて〕


 賢兄愚弟の巻

 牡丹江の学校への転校手続きは、叔父が行った。
担任の先生に兄の転校話をきりだすと、先生は、兄は「京城中学に間違いなく受かるから、このまま西大門小に残してほしい」と懇願され、残念がられていたという。
 将来、兄が判事になるなど見越せるはずもないが、名門中学校に1人でも多く入れると、学校や担任の評価につながることは今も昔も変わらない。
 昭和30年代当時は、司法修習生500人のうち50番以内で卒業できないと、裁判官に任官できないと聞いている。
 だとすれば、西大門小学校の兄の担任は、“慧眼(けいがん)をもって鳴る先生”だったといえる。
 いつも兄に「馬鹿」呼ばわりされていた、3年生のわたしはといえば、
 算術の宿題を忘れた日、同じ仲間が4、5人いた。
 先生は、宿題の計算問題を、それぞれ自宅に帰ってやって来いといわれた。
 校門を出ると、同士の1人が「僕のうちに来れば参考書があるから、みなでその答えを写そう」と話がまとまった。
 そして全員、意気揚々と教室に戻り、順番に先生に見てもらった。
 答えは全員正解であって当然である。
 ところが、わたし1人だけ全部バツだった。
 皆と違ったページの答えを写していたようだ。
 物ぐさなわたしは、問題を確かめもせず、答えの方だけ見て写していたのだ。
 もう一度家に返され、結局、自力で計算をするはめになった。
 わたしは、詩の書き方など教わったこともないのだが、なぜかしら学校でよく3重丸を貰った。
 低能の弟でも、こんなときは兄も嬉しいらしく、牡丹江の親にせっせと郵送していた。
 それに引きかえ、キク婆さんときたら、まったくおかしな性格の人だった。
 「あんたの綴り方に、家に蛇を持って帰った、と書いてあったけど、“これは嘘です”と書いて家に送ったからね」
 まるで小さな子どもが、親に告げ口してやった、といった幼稚なことを平気で言うから驚いた。
 はげ山かどこかで蛇を捕らえ、家までもって帰ったことに嘘偽りはなかった。
 家の者に見つかると叱られると思い、玄関前で捨てただけだ。
 綴り方なら、先生に言われて2度、皆の前で読まされた。
 ひとつは、自分が豆になって人間に食べられていく過程を擬人化して綴ったもの。
 もうひとつは、前夜の夢の続きをみたいと思って床についたら、実際にそうなった話。ストーリーは、少年雑誌や映画で見る時代劇風のものだった。
 親元に送るなら、こちらの綴り方にしてほしかった。
 母の甘い仕付けで行儀も悪く、いつも青ばなを垂らし、勉強もできない子どもは、可愛くないのは分かる気もするが。
 さらに、その綴り方だが、困ったことに牡丹江の学校に戻ると、さっぱり書けなくなった。

第8部 開墾と山の暮らし(9)

2008年01月10日 14:18

 卒業後の進路に迷うが思わぬ展望が

 昭和24年(1949年)1月15日、国民の祝日として初の「成人の日」を迎えたが、特別な記憶はない。
 中学3年の3学期に入れば、そろそろ卒業後の進路について考える時期である。
ところが田舎の学校だったせいか、教室内の雰囲気は、いたってのんびりしたものだった。
 男子生徒の皆がみな、農家の跡とりではないはずだが、進学とか就職に関する話題が口の端にのぼることはなかった。
 卒業後のことは、成り行き任せ、他人任せといった趣である。
 わたし自身も、満州から引き揚げてから、ずっと山と学校を往復するだけの日常だったから、世間一般の動向にはまったくうとかった。
 世の中にどのような職業があるのか、何の知識も情報も得られない。
 空っぽの脳みその中で、進路について、ただもんもんと思いを巡らし、考えあぐねている状態だった。
 戦前は、立派な軍人になって、武勲をたて、名誉の戦死を遂げること、それが軍国少年の一般的な考え方だった。
 ほかに選択の余地はないから、将来の進路について、いささかも迷う必要はなかった。
 陸軍に入るか海軍か、航空兵になるか戦車兵か、といった選択肢はあるが、それは兵隊になるという大きな枠組みの中での選択である。

 学校の帰り、山道をのぼりながら、ふと天文学者になりたいと、突飛なことを思いついたことがある。
 少年雑誌を読んだか、なにかの影響だろう。
 星座は北斗七星くらいしかしか知らないのにどうしてか、自分自身にもよくわからない。
 大げさに言えば、天体望遠鏡で星空とにらめっこし、地上の人間界のわずらわしから逃れたい、という単純な思考からきたようだった。
 進学は頭からなかった。
 小学校低学年のころ、「お前みたいなバカは学校へ行くのは“もったいない”から働け」と兄に言われたことがある。
 中学受験はまだ先の話しだし、兄に学費を出してもらうわけでもないのにである。
 その時は、兄の真意をつかみかねた。
 小学校2年生の夏休みだったろうか。
 夏休みの終わる前日まで遊びほうけていたわたしは、夕方になって切羽詰まり、泣きべそをかきながら宿題と格闘するはめになった。
 その間、書き取りの宿題まで兄に手助けしてもらった記憶がある。
 わたしの勉強嫌いは、父も承知だったから誰の目にも歴然としていた。
 だから無理して上の学校へ進むことはない、という兄のメッセージだったのかもしれぬ。
 言葉にも時には妙な呪力が宿るのか、“もったいない”の方は、わが家の経済状態で、すでに雲散霧消していた。
 問題は“働け”の方だが、こちらは思わぬところから展望が開けた。
 2月に入ると、学校に三原市の職業安定所から、三菱重工業三原車輌製作所で技能者養成工を募集しているという話が持ち込まれた。
 養成所に入ると、3年間勉強させてもらえる上、給料まで支給されるという触れ込みだった。
 養成所では、1年生は週6日のうち4日は学校で授業、残り2日は工場で実習、2年生になると、これが3日ずつとなり、3年では2日と4日になる。
 さらに優秀な者は選抜され、技術員教習制度で1年間の教育を受けると将来、技師になれるという話もあった。
 担任をはじめ先生たちは、ぜひ受けるようにと勧めてくれた。
 わたしも技師という言葉に魅力を感じ、それも悪くないなと思った。
 担任に言われて一応、父母にも相談したが反対するわけはない。
 「人間は手に職をつけにゃいけん」が口癖の母は、もちろんだ。
 敗戦後の満州で、手に職を持たない日本人の男の無能ぶりを、まざまざと見てきているから、「手に職」は母の不動の信念となっていた。
 「これからの日本もアメリカのように、学歴よりも実力の社会になるけえのう」
 なにごとにも一言理屈をつけたがる父の言い分には、少々ご都合主義を感じた。
 もし、学制改革で新制中学校が通学圏内の北方村にできていなかったなら、わたしは旧制中学校をわずか4カ月の中退で終わっていたであろう。
 学校では三菱のほかに広島の逓信講習所(後の郵政省の機関)の受験手続きもしてくれた。
 「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ」(坂口安吾『不良少年とキリスト』より)(写真、坂口安吾、初恋は『カストリの時代』ピエ・ブックス)


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