第1章 満州国崩壊の序曲(1)

2005年05月03日 15:42

  寝耳に水、ソ連軍の満洲侵攻

  昭和20年(1945年)8月9日(木曜日) 
〈ソ連参戦侵襲ニヨリ、午前1時50分東満地区ニ空襲警報発令サル〉*¹
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 「おーい! ソ連と戦争が始まったぞ!」
 興奮した声を発して4年生の一人が、ぼくたち1年生の寝室に駆け込んで来た。
 〝寝耳に水〟〝青天の霹靂〟とはまさにこのこと。
 なにはともあれ緊急事態の発生だ!
 ぼくたちは寝ぼけまなこのまま、簡易ベッドの上ではね起きた。
 ソ連軍満州侵攻を伝えに来た先輩は、そのまま入り口近くの1年生のベッドにどっかと腰を下ろした。  室内に20名ほどいた1年生は、いっせいに先輩の陣取ったベッドの周りを取り囲んだ。
 眠気はすっかり吹き飛んでいた。
5時50分の起床時間までには、まだかなりの時間があったが、満州の夏は朝が早い。
 仮の宿舎になっていた元営林局庁舎の2階の室は、隅まで薄っすらと明けていた。
 ぼくたちの寄宿舎だった星輝せいき寮は、時局の要請で陸軍病院に提供され、ほんの1週間ほど前、ここに転居して間がなかった。
〝日ソ不可侵条約〟の有効期間は、あと1年残っていると、入寮したばかりの4月はじめに聞いたばかりである。
 これは一体どういうことなのだ?
 一瞬、頭の中が混乱する。
 「家の方は大丈夫かなあ?」
 だれかが心配そうに口にした。  国境方面から来ている生徒の脳裏を、不安がかすめたようだ。
 例年なら夏休みに入り、それぞれ国境の家に帰省しているところである。
 この年は最上級生の4年生は機甲班の20数人を残して飛行機工場へ、2、3年生は開拓団へ勤労動員で出動していた。
 そのため1年生も夏休みは返上となっていた。    
 ぼくたちの中学校は、昭和17年4月、満州東部の牡丹江市に創立された全寮制の中学校である。
転勤・転属の多い関東軍に勤務する軍人、軍属の子弟のために寄宿舎が設けられていた。 
 こうした事情から、黒河(コッカ)孫呉(ソンゴ)桂木斯(ヂャムス)勃利ボツリ東安トウアン綏芬河スイフンガ)東寧トウネイなど満洲東部の国境付近からの在校生が大勢いた。
(上図は『[写説]満州』編者・太平洋戦争研究会、発行・ビジネス社)

*¹『ソ連参戦侵襲 戦争終結ニ伴フ 本校措置報告書』 星輝(せいき)中学校教頭 今江勇也(昭和20年9月10日)作成より。以下、〈 〉内のカナ混じり文は同報告書による。

 

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(『[図説]満州帝国 太平洋戦争研究会=著』河出書房新書

第1章 満州国崩壊の序曲(2)

2005年05月09日 15:22

  日ソ危機、甘かった現状認識

 それにしても、うかつと言うほかなかった。
 寮生は新聞やラジオに接することがない。
 日々の戦局は、朝礼で校長の訓示で知る程度。
 この期に及ぶまで日ソ危機を1度も聞かされていなかった。
 われわれが、そのころ意識していた敵国は、もっぱらアメリカ一辺倒であった。
 昭和20年に入ると、3月に硫黄島、6月には沖縄と玉砕が相次ぎ、いよいよ米軍との本土決戦が焦眉しょうびの急となっていた。
朝日 満州と国境を接する極東ソ連軍の動静には、まったく無頓着だった。
 だから、極東ソ連軍の兵力や配置、装備などについての情報は皆無にひとしい。
 牡丹江市からソ連との国境まで最短距離で150㌔㍍、飛行機なら20分とかからないという事実すら認識していなかったのだ。
 4年生の周りに集まったぼくらは、国境付近の戦況について、その口元からもっと詳しい情報がも れてこないか、すがる気持ちで見つめていた。
 当直の先生に伝達を命じられただけの上級生に、それを求めるのはどだい無理な話である。
 だが、不安の色を隠せない1年生たち勇気づける必要を感じたのか、
 「満州には日本軍の精鋭を誇る〝無敵関東軍〟百万人が配置されているんだ! そうたやすくソ連軍なんかにやられるわけがないだろう」
 「ソ連側が一方的に不可侵条約を破り、不意打ちをかけてきたから緒戦は劣勢に立つかもしれんが、必ず戦局はばん回するさ」
 なんの根拠も裏付けもない希望的観測に過ぎないはずだが、その威勢のよい言葉に1年生たちは次第に勇気づけられ、不安もしだいに薄らいでいった。
 「おれは機甲班で自動車の運転を習っているから、戦車だって運転できるはずだ。おれも戦車で闘わしてくれんかなあ……」
 機甲班員(自動車運転教習班)で学校に残っていたこの4年生は、自分の言葉に陶酔し士気が高ぶってきたようだった。
 「だが、無敵関東軍だ、ひとたまりもなくソ連軍をやっつけてしまうから、そんな機会はこないだろうなあ」
 残念そうな口ぶりで、そう言った。
 このころ関東軍の精鋭部隊は南方のフィリピン方面や、本土決戦に備えて日本に転出し、張り子の虎になっていたが、そんなことを知らないぼくたちは、無敵関東軍に絶対の信頼を寄せていた。
 室内の空気は、いつのまにか関東軍の精鋭部隊が、いまごろはソ連軍を満州から撃退しているだろうと、つごうよい幻想に浸っていった。
 とは言え、国境の生徒たちの心中はどうだったろうか。
 不安を口にするものはいしなくなったが、彼らの心境はわからない。
 
 30年後、初めての同窓会が大阪で開かれた。その時、国境の生徒の多くが両親弟妹らを失い、一家全滅、天涯孤独になったものもいると知った。例年通り、夏休みで国境の家に帰省していたら彼らの運命も……。

 父親がぼくの父と同じ軍事郵便所勤務だった佐々木も、両親と妹3人の家族全員を失い天涯孤独になった一人である。
 彼は、ぼくに次のようなことを語ってくれた。
 父が国境近くの滴道(テキドウ軍事郵便所長だった彼らの家族は、同じ官舎の他の家族とともに首尾よく脱出できた。 
 だが、内地への引き揚げが始まる寸前に、避難先の吉林で下の妹2人、瀋陽で両親と上の妹が相次いで死亡。 死因は飢えからの栄養失調らしい。
 戦後、何年かのち彼の家族と一緒に避難していたという人から手紙をもらって知ったという。
 彼は若いうちに墓を建立し、納骨代わりに満州で撮った一家の写真を納めてあるそうだ。
 その彼は家族運が薄いのか、結婚後も子宝に恵まれず夫婦2人暮らしだ。

4年生

(本校教員と4年生一同。学校正面玄関前にて。昭和20年6月1日撮影)

 

 





第1章 満州国崩壊の序曲(3)

2005年05月13日 15:12

   張子の虎だった関東軍

 ともかく牡丹江は内地と違って、これまで空襲の経験もなく、空から降り注いでくる爆弾や焼夷弾の恐ろしさも知らない。
 満州に住むぼくたちにとって、戦争は遠く離れた想像の世界でしかなかった。
東満州  さて、われわれが自己陶酔に陥っていたころ、当日朝の牡丹江のラジオ放送は、
 「ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、不法にも全国境から我が国に侵入を開始しました。
しかし我には、関東軍の精鋭百万あり、全軍の志気は極めて旺盛、目下前線では激戦を展開、ソ連軍を撃退中であります……」
 これでは、われわれの勝手な情勢判断と五十歩百歩である。

 ところが真相は、
 関東軍の精鋭は南方や,本土決戦のため内地に転用され、武器、弾薬も底をつき、もはや「張子の虎」だった。
 ソ連軍を迎え撃つ関東軍は兵員こそ70万人に達していたが、現地満洲での兵力調達で5月に約20万人の在留邦人を、8月に入るとさらに10万人を招集。
 これら根こそぎ動員による招集兵は、軍事訓練を受けることもなく、戦車、砲兵、航空部隊の重装備は皆無に近く、小銃すら充分に行きわたらない未教育の兵の集団に過ぎなかった。

 『関東軍作戦参謀 草地貞吾回想録』(芙蓉書房出版)の中で、筆者の草地大佐は、
 関東軍としては「兵力転用企図秘匿要領」などを作製、戦力の抽出転用を極力秘匿し、張り子の虎を装った。(略)
 関東軍はすでに昔日の精強関東軍ではなかった。
 しかし、それでも70万人あった。最後のハラは70万玉砕であった。

 また、関東軍部隊の内地転用に関して、
 数万にのぼる兵員が移動しているのを目撃したという人は少ない。
 軍はすべてこれを夜間に実施したからだ。
 敵性人につかまれたとしても、その全貌を把握することはできなかったであろう。
 これに対し、『シベリアの挽歌 全抑協会長の手記』(全国捕虜抑留者協会長 斎藤六郎著)で、著者の斎藤氏は、
 南方戦線は敗退を重ね、兵力の消耗が甚だしかった。
 その補充兵力として昭和19年初頭から、何十万の精鋭部隊を関東軍から引き抜き転進させていた。
 武装した軍隊の移動は人眼から隠し通せるものではない。
 しかも適性中国人の衆人環視のもとにおいておや、と手厳しい。

  ぼくらの学校でもその影響で、内地の学校に転校した生徒が多数いる。
 本校の学籍簿によると、4月に入学した1年生は120名、そのうち14人が5月から6月にかけ岩国中、丸亀中、唐津中、飯田中などに転校している。
 関東軍の大幅な内地転出があったことを、これが裏付けている。
 部隊の移動が外部に洩れるのを防ぐため、ごく一部の関係者以外には内密にしていたのだろうか。
 戦後、当時の学籍簿のコピーを見て初めて、気付いたのである。
 満州の学校で転校は日常茶飯事だった。
 それに入学間もなかったから同級生同士でも、なじみが浅かったせいかもしれない。
 余談だが、内地転校組の中には、後に『機雷』で直木賞(1981年下期)を受賞した故光岡明氏も含まれている。
 彼が在籍した期間は、わずか1週間だったそうだ。
南方地図 

 (『20世紀の歴史 [15巻] 2次世界大戦[上]』平凡社)

 

第1章 満州国崩壊の序曲(4)

2005年05月17日 14:20

  学徒遊撃隊結成
 
 ソ連軍参戦・満州侵攻の第1日目の9日、ぼくたち1年生は学校でなにをしていたのか全く記憶にない。
 「本校措置報告書」によると、
 <ソ連参戦・東満侵襲ノ報伝エラレルヤ、職員・生徒全員ノ非常招集ヲ決行シ、カネテ結成シアリタル、学徒遊動隊総隊ノ編成ニ基キ、在牡丹江学徒遊撃隊総隊長(星輝中学校長宇高少将)統率、大隊長(本校今江教頭)指揮ノ下、道場神前ニ於イテ、血盟式ヲ挙行ス>
編成
 かねてから有事の際は、牡丹江市内の学校の職員、生徒を招集し〝牡丹江学徒遊撃隊〟を結成することになっていたらしい。
 市内には、中学校が牡丹江中学とわが校の2校、青年学校が1校、国民学校(小学校)が3校あった。遊撃隊は、上記の学校の職員・生徒で、右表のように3個大隊を編成。
 
 <学校総隊長ノモト、兇敵撃摧ノ熱願ニ燃エ、勇躍戦列ニ参ジ、市民援護、学園死守ノ重責完遂ニ決死敢斗ヲ宣誓ス>

 遊撃隊員の年齢構成は、 12歳から16、7歳くらいまでの中学生と、10歳以上の国民学校児童だ。
 第二大隊(本校)の場合、6月に学徒動員令が発令され最上級生である4年生は、機甲班の20名を残し、満州西部にある白城子ハクジョウシの満州航空平台飛行機工場に出はらっていた。
 人員数は、1年から機甲班の4年生まで総員300名弱、大隊とは名ばかり1個中隊並みだ。
 手にする武器といえば、せいぜい木銃くらいである。
 ソ連軍が突入し市街戦が始まったばあい、徒手空拳にひとしい少年の集団が、勇躍戦列に参加したとて、どれほど抵抗できただろうか。
 とはいえ、沖縄戦では島の中学生や師範学校生は〝鉄血勤皇隊〟を結成、日本軍とともに戦闘に参加し、多くの生徒が散華している。

学徒動員

(写真は『満洲の記録 満映フィルムに映された満洲』より 集英社発行)


    自宅通学の朗報
 
 <寮生中自宅又ハ親戚ヨリ通学可能ナル者ニ対シ、帰宅ヲ命ズ>
 理由は、
  <時局ノ要請ニヨリ旧男子星輝寮ヲ軍病院(7月末、第5部隊野戦病院)ニ提供、元営林局庁舎ニ転居ノトコロ井戸水ノ湧出量乏シク多人数ノ炊飯著シク困難ナル上、新事態ノ発生ハ更ニ早急ノ方途ヲ必要トセラレタルニヨル >

 市内に自宅または親戚のある者、近郊より通学可能な者は即刻帰宅してよいことになった。
 牡丹江駅理由はなんであれ、ぼくにとって跳びあがるほどの〝朗報〟だった。
 時局がら、待ちこがれていた夏休みが返上となり、大いに落胆していたところだ。
 寮の食事は、朝はおかゆ、昼の弁当は毎日、判を押したように冷凍物の臭いの強い魚とひじきの煮付け。  弁当を左右に振ると、中身は3分の2か半分くらいに片寄る。
 4月に入寮して以来、慢性的な空腹に悩み、空腹はさらにホームシックを募らせた。 〝帰心矢の如し〟とは、まさにこのこと。
 授業が終わると一目散に牡丹江駅へ向かい、列車に飛び乗ると二つ目の海林ハイリン駅で下車、わが家へと急いだ。

第1章 満州国崩壊の序曲(5)

2005年05月20日 19:40

 8月9日、その日牡丹江では

 日ソ開戦初日の牡丹江市内の様子を、『秘録大東亜戦史 満洲篇』(富士書苑)に収録された「歴史の足音」(朝日新聞 福沢卯介著)と、「闘わざる覆面将軍」(毎日新聞 北沢学著)から、一部抜粋させてもらう。

『歴史の足音』から


 8月9日の朝、私はふと、けたたましい電話のベルで眠りをさまされた。
砲撃 「おい、とうとう始まったぞ」
 「なにが?」
 「ソ連だ」
 Kの叩きつけるような大きな声、瞬間ピリッと私の頭のシンは慄えた。
 「そうか、状況は?」
 「詳細は判らない。国境線は全面的に突破されたらしい」   
 私は受話器をもったまま崩折れるように床にすわりこんだ。
 私たちはいろいろな状況からソ連進撃は10月だと観測していたのだ。時計をみると午前4時45分、私は従軍服に着かえて玄関を飛び出した。
 私はかねてからソ軍侵入と同時に第一方面軍(司令部牡丹江)は、通化省の山地帯に撤収、ここで最後の抗戦をつづけるということは承知していた。いよいよ各部隊に撤収命令は発せられたのだ。
 牡丹江の、7万余の在留邦人の防衛は、いったい誰がやってくれるというのだ。
 木銃1挺と日本刀を腰にした在郷軍人と、ついさき程応召になった、完全武装をもたない老兵が主力という守備隊のみで戦えというのか。

ソ連侵入

 

 

『闘わざる覆面将軍』から

 そしてこの日牡丹江では――。
 それは早朝5時、寝室のベルがけたたましく鳴りひびいた。受話器をはずすと同時に、
 「大変だ、大変だ、はじまったぞッ」
 「何だって?」
 私はまだ夢心地であった。
 「けさ綏芬河スイフンガの線でソ連が攻め込んできたんだ。目下激戦中だ」
 電話の主が、軍関係の真面目な友人とわかると、私はがばと布団を蹴って支局の事務室に急いだ。 大平路
  特務機関を呼び出した。
 「ほんとうらしいな、いま非常呼集をかけているところだ。昨夜は、新京とハルピンに飛行機があらわれている」 と特務機関の本尊ほんぞんさえ、不意を衝かれた形であった。
 隣組の若い者が、調子はずれな声で空襲警戒警報を伝達していた。
 どこの家でもまだ安逸あんいつな夢を追っているらしく、若者はいらいらした表情で、「ソ連が攻めこんで来たんですよ。本当ですよ」
 とつけくわえていた。
 あちこちの窓がひらいて、何を人騒がせな、といった寝呆ねぼけた顔を突き出していた。
 正午ごろになると、市民は虚脱状態からぬけだしたようであった。隣組の回覧坂は、
 「軍はあくまで牡丹江を死守するから各人は各自の職場を死守せよ」
 という意味を伝えている。
 前線の戦況は一切発表されなかった。五部隊はその日の内に敦化トンカに異動したらしい。

ソ連会議

 (上の写真2枚は『満州の記録―満映フィルムに写された満州』集英社)

 

 



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