第2章 逃避行そして難民生活へ(3)

2005年11月02日 15:33

  夜間に列車が正面衝突
 ハルピン飛行場で一夜を過ごした翌日、ふたたび避難列車に戻ると列車は牡丹江方面へ逆戻りを始めた。来る時と同様、走ったり停まったりの繰り返しだったが、また海林ハイリンに帰れるのだと勝手な憶測が流れ、全員喜びの色を隠せなかった。
 母は海林を発つとき、軍事郵便所で雇っていたボーイに「家に残っている家財類は、全部持って行っていいよ、と言ってきたけど、あのボーイさん、そのまま家を守っていてくれるかもしれない」と都合のよいことを口にしていた。
 母の頭の中には、家を出た時のままのイメージが残っているのだろう。
 軍郵のボーイさんというのは、ぼくより2、3歳年上の中国人で、色白のどことなく品の良い小孩シャオハイだった。もちろん日本語は話せたし、気もよく利くので所員や奥さんたちの受けもよかったようだ。
 わが家と郵便所は目と鼻の先だったから、ボーイさんは御用聞きをかねてちょくちょく顔を出していた。そこで一度、算数の分数の問題を試してみると簡単に解いたから、小学校程度は出ていたのだろう。シュガ
 夕方、途中の駅に停まるといつ出発するともなく夜を迎えた。貨車の中で寝ていると突然、大音響とともに大きな衝撃が伝わってきた。
 驚いていると、列車の横を、「誰かロシア語の通訳はおらんか! ロシア語の通訳は!」
 大きな叫び声とあわただしい靴音が、貨車のすぐ横を駆け抜けて行った。
しばらく経つと、ぼくたちの乗っていた列車に別の列車がぶつかってきたのだという報せが入った。とは言っても、ぼくたちは真っ暗闇の外の騒ぎを気にしながら貨車の中で落ち着かない一夜を明かすしかなかった。
 翌朝、われわれは列車から降ろされた。
 列車の横を誘導されてぞろぞろ歩いていると、デッキに乗っていたらしい中国人の若い男が、ボロの布包みを一つ抱きかかえたままの状態でデッキの間で押しつぶされ死んでいた。
ちょっと先へ行くともう一人、連結器にでも腰を掛けていたのかその間に挟まれ宙ぶらりんになっている。
 衝突してきた側の列車にも日本軍の部隊が乗っており、そちらの列車では多数の死傷者が出たという。 さらに話に尾ひれがついて、暑さにかまけて有蓋貨車の屋根の上で寝ていた兵隊たちは、衝撃の弾みで転落したが大した怪我もなく助かったと、まことしやかに伝わってきた。
 日本兵の死体は夜明けまでにすべて近くの土中に埋葬したと言う。
その部隊の部隊長は大勢の部下を殺したことの責任をとって割腹自害したというが、こうした情報がどこからともなく流れてきた。

  無警戒なソ軍少年兵 
 乗り換えた列車は横枠のない貨車だった。見張りのソ連軍の少年兵は、貨車の後方で後ろ向きに座り、両足は貨車の外にだらりと垂らしていた。
ソ連兵 少年兵の手にしている鉄砲は、旧式の銃身の長いやつだった。ソ連軍も銃が不足したいたのか、少年兵はマンドリン型の自動小銃は持たしてもらえないのか。
 貨車の上の集団は婦女子だけにしても、あまりにも無防備、無警戒な少年兵の心理を疑った。誰かがちょっと少年兵の背中を後ろから突けば、間違いなく列車から転落するだろう。
 乗っているのは敗戦国民で、しかも婦女子のみだからと高をくくっているのだろうか。
(『画報 現代史①日本近代史研究会編』日本図書センター)

 一面坡に近い珠河街に着くと、同行していた部隊は武装解除され、兵隊たちはそのままウラジオストック経由で日本に帰還するとことになった。
 軍事郵便所で顔なじみの上等兵が、「奥さん、お先に失礼します。日本に帰ったらまたお会いしましょう」 喜色満面で挨拶に来た。母たちは、兵隊たちだけがなぜ先に日本に返されるのか、狐につままれたような顔で別れの挨拶を交わしていた。
冷静に考えれば、軟弱な婦女子のみ残し、頑健な兵士たちを先に日本に帰すのは変ではないか。中には疑念を抱いた兵隊もいたのではなかろう。
 だが、「シベリア抑留」という不吉な予感が頭の隅をよぎったとしても、望ましくない予想は頭の中から遠ざけようとするのが人間の心理かもしれない。
 先の上等兵は、ぼくたちより1日後に海林を出たとかで、話によると海林軍事郵便所の建物は、ソ連機の爆撃を受けたが不発弾で天井が突き破られただけですんだそうだ。
 また、中国人の暴徒が空き家になったわが家に向かって略奪に押しかけてきたが、機関銃による威嚇射撃で追い払ったという。
 ソ連政府が日本軍捕虜のシベリア移送を決定し、現地に命令が下ったのは8月23日とされるから、敗戦後1週間ほど経っていたのだろう。
 珠河街で降ろされた婦女子の一団は、駅近くにある元日本軍の兵舎跡に収容された。
 今後、自分たちがどのような運命に出会うか皆目検討がつかない。すべてはソ連軍の指示待ちだった。
明細
(『シベリアの挽歌 全抑協会長の手記』斎藤六郎著)

第2章 逃避行そして難民生活へ(4)

2005年11月12日 16:23

  武装解除から抑留へ、ある関東軍兵士の心象風景
 ソ連軍から武装解除をうけたのは、ついきのうのことであった。横道河子オウドウカシ という山あいの町で、ソ連の戦車隊に追いつかれたわたしたちは、白旗を掲げた翌日の朝、すぐ武装を解除された。
 武装解除といっても、別に厳重な監視があったわけではなかった。
 わたしたちはめいめいガヤガヤいいながら小銃や帯剣や小銃弾や手榴弾を道路わきの空地に散乱させた。山あいの町の降伏風景はまるで夢のように穏やかで、静かなものであった。
 横道河子を出発するとき、ただ西へ引き返えせという命令が出ただけであった。
 「牡丹江まで引き返すんだってさ。それから汽車に乗せて帰してくれるんだろう」
 捕虜と白旗みんなはそんなことをいい合っていた。 
 その日の午後、わたしたちは海林という駅に近い道路に面したある輜重隊しちょうたいの兵舎に入って行った。 ほかの部隊もいくつか、わたしたちより先に到着しており、二千名ばかりの兵隊が倒れるようになって、営庭に転がっていた。みんなこの十日間をわたしたちと同じようにソ連の戦車隊に追いまくられ、山へ逃げ込んだ部隊ばかりに違いない。
 今、わたしたちの前に投げかけられている問題は、わたしたちの運命をどう切り拓いて行くかということではなく、運命がどう流れて行くかということに対する不安であった。
 私(上等兵)はできるだけこうした不安を考えまいとした。そんな話を持ち出されるとき、わざと不安を噛み殺し、つとめて明るい見透しについて話すようにした。
(写真は『満洲の記録 満映フィルムに映された満洲』集英社)
 「せいぜいもう一月だよ。帰してくれるよ」
 私はそう主張せずにいられなかった。ポツダム宣言にそういうことが明記されていること、ソ連には人的資源が豊富だから、われわれの労働力など必要としないこと、ソ連の態度が必ず人道的であること――それが私の主張の根拠だった。
 私のそうした考えを正面から反駁はんばくする兵隊は一人もいなかった。だが、私の言葉をそのまま信じきる兵隊もいなかった。
 ただ降伏申入れから終戦までの情報に私が一番通じていたということや、わたしたちの間では私がやや物知りであるという点だけが、幾分私の言葉をみんなに納得させる上に力を持っていたようであった。だから、
 「使役、使役、二、三年はシベリアで使役さ」
 とこともなげに方言する兵隊でも、その後で必ずこうつけ加えることを忘れなかった。
 「……と思ってりゃ腹は立たないさ」
 「帰すとなれば、釜山か、清津かね」
 「朝鮮は危ないからね」
 「大連かな?」
 「ウラジオだよ。きっと」
 「そうだ、それが一番近いよ」
 「同じ帰るなら、ソ連を通った方がいいね」
 「話の種になるよ」
 話の種という言葉を、私は眼をつむって噛みしめて見る。
 この3年間の兵隊生活、戦争、敗戦そしてこの現在の境遇――すべてが内地へ帰ってから、話の種とならないものはなかった。そういう時がもてるであろうか? もてるに違いない。いや、是が非でももたねばならない。
 眼を閉じ眼を開けて見ると、もはやそこが内地であることを、そういう奇跡を必死になって求めている。
(以上、『秘録大東亜戦史 満洲篇』、昭和29年6月発行、産業経済ロンドン支局長北川正夫著『シベリア行』より)
満鉄路線図
『[満洲帝国]北辺に消えた〝王道楽土〟の全貌』(学究研究所)

  関東軍兵士ソ連抑留の疑惑
 日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、東南アジアの日本兵士は早々と帰還したのになぜソ連に降伏した関東軍だけが取り残されたのか。
野原で  『シベリアの挽歌 全抑協会長の手記』(全国捕虜抑留者協会長斎藤六郎著)よると――日本軍の連合軍に対する降伏は無条件降伏であったが、その他の付随的問題については数ヶ条の条件を提示していた。それを定めたのが「ポツダム」宣言第九項である。
 「日本国軍隊は完全に武装解除されたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」
 米、英、支(中国)等の占領地では、おおむねこの線で早期送還に着手した。それなのにソ連一国のみ、これに反し長期に日本人兵士を抑留し労働を強制するに至った。
 ソ連もポツダム宣言の署名国でありながら、他の連合国とことなる挙に出た背景、法的根拠は何か。当時の国際法は捕虜を賠償として取り扱うことは禁じており、人道的に遇すべきと規定していた。
 日本人将兵の抑留は、事実上ソ連の賠償先取りである。それを明確に証明しているのが、昭和20年8月23日付の「健康な捕虜50万を連行せよ」のスターリン命令である。

  [日本人捕虜に関するスターリン命令書] 暗号電報№2234

   1945年8月24日12時25分、モスクワ発
   1945年8月24日19時05分、赤軍参謀本部第8局受理

 1945年8月23日付国防国家委員会決定№9898の第2条を以下伝達する:
  方面軍軍事ソビエトは、ソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者総局の代表者達とともに、以下の措置を義務として実行すること:
  ア)極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人―日本軍軍事捕虜を、約500,000人選抜すること;
   イ)軍事捕虜をソ連邦に移送する前に、1,000人づつから成る建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、特に日本軍の工兵部隊の若い将校、下士官の軍事捕虜を、指揮官に命じること;(以下略) 
 スターリンは、一度は日本人将兵の帰国に同意を与えていた。それは自らも参加したポツダム宣言第九項にあったからである。
 だが、対日参戦の見返りとして北海道の占領がアメリカの反対で潰れ、これでは国民が納得しないと日本人捕虜のシベリア抑留に方針を転じつつあった。
 加えて関東軍の労務提供の動き(詳しくは『シベリアの挽歌』原文参照のこと)は、スターリンにとって誠に都合のよいことだった。日本軍の方から「お使い下さい」と申し出てきたのだから何の遠慮も不要とばかり、日本人兵士らは酷寒の大地で飢えになやまされながら労働を強いられることになった。

総司令部




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